「ウォルポールの平和」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「「ウォルポールの平和」」の解説
ウィリアム3世以来、主としてホイッグが中心となって進めてきた反仏政策であったが、すぐれた財政家であり、南海泡沫事件の処理による功績で第一大蔵卿(事実上の首相)となったホイッグ党のロバート・ウォルポールは、「国民的重商主義」の見地から戦争は貿易の障害になるとして平和外交をおしすすめた。これは「長い18世紀」のなかでは例外的なことであったが、その執政中にあっても戦争の危機は存在していた。イギリスのジブラルタル領有に不満なスペインはオーストリア(ハプスブルク君主国)と結び、1726年、ジブラルタルを奪回すべくこれを包囲した。それに対し、ウォルポールはスペイン領西インドに艦隊を派遣したが、けっして相手を攻撃しないという条件が付けられていた。ウォルポールはまた1733年に勃発したポーランド継承戦争にも参戦しなかった。 このようにウォルポールは戦争を回避しようと努力していたが、イギリス商人がユトレヒト条約の契約(アシエント)に違反したためスペインが捜査権を行使してイギリス船舶と積荷を没収したところから、再び戦争の危機が訪れた。平和的な外交交渉によって問題解決をはかろうとするウォルポールに対し、トーリー党はもちろんホイッグ党の一部も反発し、ウォルポール派は多数派を維持できなくなった。1738年、スペイン船に拿捕された際に虐待を受け、耳を切り取られたとしてレベッカ号のジェンキンス船長が自身の耳の塩漬けを議会に示した。これは一大センセーションをまきおこし、ウォルポールも議会の主戦論におされて1739年、スペインに対して宣戦を布告した(ジェンキンスの耳の戦争)。この戦争はオーストリア継承戦争につながり、「ウォルポールの平和」は終焉をむかえたのである。
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