プロ入り、全盛期とは? わかりやすく解説

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プロ入り、全盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:18 UTC 版)

吉村禎章」の記事における「プロ入り、全盛期」の解説

PL学園高で西川佳明若井基安と共に1981年第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たす。 1982年ドラフト3位読売ジャイアンツ入団。 高いバッティングセンスと身体能力武器2年目1983年84試合出場果たし規定打席未到達ながら打率.326の好成績挙げる同年若手選手として活躍した駒田徳広槙原寛己とともに、彼らの背番号にちなん50番トリオ2010年代には五十路トリオ)と呼ばれた。 その活躍きっかけに、翌1984年から右翼手レギュラー定着俊足強肩選手として将来嘱望されていた。 1985年残り1試合残して出塁率.432であり、同じく残り1試合残したランディ・バースの.423に9厘差をつけて1位であった最終戦直接対決では、バース本塁打シーズン記録王貞治に1本差迫っていたため、勝負避けられたことで5打席全部出塁(1安打、4四球)して.42807となった。これに対し吉村は仮に3打席凡退交代なら.42857で初のタイトル獲得できたにもかかわらずフル出場した結果4打席凡退して.42754となった。そのため、バースが.00053差で逆転し吉村は最高出塁率のタイトル逃したこの年からセ・リーグ最多出塁数ではなく高出塁率で記録・表彰することになっており、出塁率計算仕方この年から犠飛分母入れ計算方法変わっていたが、これに馴染みのなかった巨人ベンチ気づいていなかったという(前年までの出塁率計算方法だと、バースが.430、吉村が.433)。 1986年主軸として128試合出場打率5位、23本塁打記録1987年打率5位、86打点記録30本塁打達成開幕戦中日戦では杉本正から本塁打放っている。30号目は、10月18日の対広島後楽園球場最終戦、4回裏の打席で、カウント2-2の際にスコアボード表示(2-1)が球審山本文男の手カウンター(2-2)と異なっていたことから、打者吉村捕手達川光男カウント確認したところ捕手達川よりスコアボード表示正しいとのアピールを受け、カウント2-1として白武佳久次の球を投じてしまったためカウント確定プレー続行され本来あり得ない「2ストライク4ボール」の状態から打ったものであり、この本塁打後楽園球場シーズン公式戦最後本塁打でもあった。1986年1987年2年連続ベストナイン選出され若くして巨人主力選手となった。その一方で当時から肩の弱さによる送球能力低さ指摘されこの年から代走守備固め送られることが多くなった。 1988年3月18日阪神とのオープン戦東京ドーム完成後の第1号本塁打放つ

※この「プロ入り、全盛期」の解説は、「吉村禎章」の解説の一部です。
「プロ入り、全盛期」を含む「吉村禎章」の記事については、「吉村禎章」の概要を参照ください。

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