プロ入り、全盛期
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PL学園高で西川佳明、若井基安らと共に1981年の第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たす。 1982年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。 高いバッティングセンスと身体能力を武器に2年目の1983年に84試合の出場を果たし、規定打席未到達ながら打率.326の好成績を挙げる。同年若手選手として活躍した駒田徳広、槙原寛己とともに、彼らの背番号にちなんで50番トリオ(2010年代には五十路トリオ)と呼ばれた。 その活躍をきっかけに、翌1984年から右翼手のレギュラーに定着。俊足強肩の選手として将来を嘱望されていた。 1985年、残り1試合を残して出塁率.432であり、同じく残り1試合を残したランディ・バースの.423に9厘差をつけて1位であった。最終戦の直接対決では、バースが本塁打のシーズン記録で王貞治に1本差に迫っていたため、勝負を避けられたことで5打席全部出塁(1安打、4四球)して.42807となった。これに対し、吉村は仮に3打席凡退で交代なら.42857で初のタイトルを獲得できたにもかかわらず、フル出場した結果4打席凡退して.42754となった。そのため、バースが.00053差で逆転し、吉村は最高出塁率のタイトルを逃した。この年からセ・リーグは最多出塁数ではなく最高出塁率で記録・表彰することになっており、出塁率の計算の仕方もこの年から犠飛を分母に入れる計算方法に変わっていたが、これに馴染みのなかった巨人ベンチは気づいていなかったという(前年までの出塁率の計算方法だと、バースが.430、吉村が.433)。 1986年は主軸として128試合に出場。打率5位、23本塁打を記録。 1987年も打率5位、86打点を記録、30本塁打も達成。開幕戦の中日戦では杉本正から本塁打を放っている。30号目は、10月18日の対広島(後楽園球場)最終戦、4回裏の打席で、カウント2-2の際にスコアボードの表示(2-1)が球審山本文男の手元カウンター(2-2)と異なっていたことから、打者吉村、捕手の達川光男にカウント確認したところ捕手の達川よりスコアボードの表示が正しいとのアピールを受け、カウント2-1として白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定、プレーが続行され本来あり得ない「2ストライク4ボール」の状態から打ったものであり、この本塁打は後楽園球場のシーズン公式戦最後の本塁打でもあった。1986年、1987年と2年連続でベストナインに選出され、若くして巨人の主力選手となった。その一方で当時から肩の弱さによる送球能力の低さが指摘され、この年から代走や守備固めが送られることが多くなった。 1988年3月18日、阪神とのオープン戦で東京ドーム完成後の第1号本塁打を放つ。
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