国際的な認知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:30 UTC 版)
戦後、数回の流産ののちイリーナは娘メアリーを出産した。1946年3月7日のことであった。この子は数年前に亡くなったムーアの母親の名前を譲り受けた。ムーアは母の死と娘の誕生で家族への思いやりの心を一層強くし、母と子供の像の増産に拍車がかかった。もっとも依然として横たわる像もポピュラーではあったのだが。同じ年、ニューヨーク近代美術館の自分の回顧展のためアメリカへ最初の訪問をした。また1948年にはヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際彫刻賞を受賞している。 戦争の終わりごろ、州立大学の教育を改善しようとしていたヘンリー・モーリスが接触してきた。ケンブリッジ近くに2番目の大学を建てるにあたりヴァルター・グロピウスに建物を、ムーアに大規模な公共彫刻を依頼してきた。しかし、州議会はグロピウスの設計の全体像を認可する余裕がなく当人がアメリカ移住してしまったこともあり計画を縮小してしまった。ムーアへの彫刻依頼も資金難からキャンセルされ計画は初期段階でストップしてしまった。幸い1950年、スティビニッジに作られたニュータウンの中学校のためにその時のデザインを再利用することができムーアにとってのプロジェクトは完了した。このとき制作した「家族」は最初の大きな公共の場所のブロンズ像となった。 1950年代にムーアはパリのユネスコの建物(1957年)を含めますます重要な依頼を受けるようになった。多数の公共の彫刻の依頼でムーアの作品はますますスケールアップしてゆき、アンソニー・カロを含め多数の助手を雇うようになった。 シカゴ大学のキャンパスでは、1967年12月2日午後3時36分、エンリコ・フェルミの率いる物理学者のチームが史上初の自立的核分裂連鎖反応を起こすことに成功してからちょうど25年経ったその時刻に、かって大学のフットボールグラウンドであった場所、すなわち核実験がその地下で行われた場所の真上で、ムーアの像「核エネルギー」(アトム・ピース)が公開された。広場の真ん中にある12フィートの像の上部は象の頭蓋骨のデッサンからインスピレーションを受けたきのこ雲を連想させるフォルムから成立つ。しかしムーアの解釈は異なり、「まわりの広いスペースにも目をむけ、その周りを巡りながら教会の中にいるような気持ちになってほしい」と友人に語ったという。 1968年、エラスムス賞受賞
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