国際的な評価の高騰
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1957年の日本国際美術展K氏賞と今日の新人57年展新人賞に始まり、1963年の7年間には国内外で異例とも言える9個もの賞を受賞した。1958年には現代日本絵画ヨーロッパ巡回展、オーストラリア巡回展、ニュージーランド巡回展、カーネギ―国際美術展などに出品。1959年には第5回日本国際美術展で国立近代美術館賞を受賞し、「ペインティングE」で国際美術評論家連盟賞を受賞。また1959年の第5回サンパウロ・ビエンナーレには電気ドリルで合板に線や穴を描いた連作を出品している。1960年5月から8月には第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加するためにはじめてヨーロッパに渡り、ルーチョ・フォンタナのアトリエやパリを訪れた。ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館には斎藤の他に浜口陽三(版画)、佐藤敬(洋画)、今井俊満(洋画)、豊福知徳(彫刻)、小野忠弘(洋画・彫刻)などが出品し、アンフォルメルを定義したフランス人美術評論家のミシェル・タピエは斎藤の作品を「私にとって新しい発見」と語っている。 日本帰国後の1960年8月には浦安から東京都港区青山に移ったが、青山で暮したのは短期間であり、1961年3月には横浜市磯子区屏風ヶ浦に転居して再婚した。1961年には再び日本国際美術展に出品し、第6回サンパウロ・ビエンナーレでは国際絵画賞を受賞している。同年にはグッゲンハイム国際美術展にも出品して優秀賞を受賞した。1960年代前半には世界各国の画廊から個展の開催依頼が殺到し、1963年から1965年にはフランスにおける前衛芸術の拠点とも言えるギャラリー・ド・フランス(パリ)、フリードリッヒ・ダーレム画廊(ミュンヘン)、イタリア・ミラノの第一級画廊であるナヴィリオ画廊(ミラノ)、などで個展を開催している。
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