個展の開催(1895年)
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「ポール・セザンヌ」の記事における「個展の開催(1895年)」の解説
1895年11月、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった。ヴォラールは、1894年に行われたタンギー爺さんの遺品売立てでセザンヌ作品が6点出品されたうち、4点を入手した。さらに、ヴォラールは、パリの街でセザンヌの家を苦労して探り当てて息子に会い、説得を依頼した。すると、南仏にいた本人から、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきて、個展開催に漕ぎ着けた。しかし、批評家たちの評価は芳しくなかった。一方、個展を見たピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは、驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている。 『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年。オルセー美術館。 『アヌシー湖』1896年。コートールド・ギャラリー。 同郷の友人の息子で詩人だったジョワシャン・ガスケが、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている。1897年、母が亡くなり、1899年、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという。 1898年には、ヴォラールが第2回個展を企画し、1899年には、セザンヌは第15回アンデパンダン展に出展した。セザンヌは、この両年には一時パリで過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった。
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個展の開催
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1937年(昭和12年)秋には、八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早稲田大学講師戸川行男により早稲田大学で小さな展覧会が行われたほか、1938年(昭和13年)11月には同大学の大隈小講堂にて「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示された。
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