停滞期と斜陽の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:14 UTC 版)
しかし、大国時代にもすでに斜陽の時期が訪れようとしていた。北方戦争及びポーランド最大の内戦、大洪水時代で受けたスウェーデンの損害は甚大であった。その為、バルト海での覇権を得たと言ってもそれはバルト海沿岸諸国内部にまで及ぶまでには至らなかった(影響力を行使出来たのは、同盟国のホルシュタイン=ゴットルプ家など僅かであった)。特にスウェーデンはドイツ北部(神聖ローマ帝国)にも影響力を持っていたが、ドイツにおける諸領邦との利害関係や、デンマークを挟み込む体勢となったことは、新たな紛争の原因ともなった。 そしてそのドイツにおいてスウェーデンの覇権に挑戦したのがブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国の同君連合であるブランデンブルク=プロイセンであった。神聖ローマ帝国の一領邦に過ぎなかったこの国は、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによってバルト帝国のくびきを自力で脱したのである。1672年より始まったオランダ侵略戦争は、バルト帝国にとって一つの転換期となった。この戦争は、オランダ、デンマーク、ブランデンブルクの共闘によって、スウェーデンによるバルト海の覇権に楔を打ち込むこととなるのである。その一つがブランデンブルク=プロイセンの台頭であった。 プロイセン及びブランデンブルクは、一時期スウェーデンの宗主下におかれていたが、北方戦争の後に事実上の自立を果たすこととなった。この大選帝侯によって、スウェーデンは三十年戦争以来のドイツの領土を失ったのである。唯一残されたポンメルン(現在はメクレンブルク=フォアポンメルン州に属する)も19世紀にプロイセン王国に引き渡されることになる。 さらに、スウェーデン海軍はプファルツ朝の下では更新は遅きに失し、これもバルト帝国の致命的な弱点となった(このため新大陸の植民地を失った他、バルト海の制海権を失うことになる。スウェーデンは当時の列強国の中で唯一、植民地化の形成に失敗した国家であった。海軍の弱体化は、結果としてヴァーサ朝の元で獲得した新大陸及びアフリカの植民地を、北方戦争の前後に敵対国の侵攻によって喪失することになり、植民地帝国や海上帝国を形成することが出来なかった)。その上、ロシアではピョートル1世による近代化政策が着々と進んでいたのである。 とは言え、17世紀後半も様々な問題を抱えながらも帝国は維持されることとなった。戦争に明け暮れた前王と異なり、カール11世の治世は平和な時代で安定期であったと評される。しかし単なる停滞期に留まらず、この時代の平和のおかげで次代のカール12世の時代に本格的な軍事行動を起こせたという評価もある。実際にカール11世の軍事改革や諸改革によって帝国は持ち直したと言える。さらにドイツにおいて失われた影響力を、レーエン関係の修復やプファルツ継承戦争でアウクスブルク同盟を支援するなどして、フランスの拡大を抑止しプファルツ=ツヴァイブリュッケンを獲得するなど、ある程度は持ち直したと言える。カール11世の晩年のスウェーデンは、なおヨーロッパの列強としての地位を保持していたし、バルト海の覇権も維持していた。しかしそれは周辺国の犠牲の下に成り立っていた。特にデンマークに対する内政干渉とも取れるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国問題への介入や、ヨーロッパへの海の出口を奪われたロシアにとってそれは深刻であった。カール11世は、ヨーロッパで起きる戦争には中立であろうとしたが、自身の死と周辺国の憤慨と野心のために果たせなかった。 カール11世の治世下において絶対君主制は確立された。幾らかはこれによって、スウェーデン支配地域における安定した国家体制が築かれた。特にバルト地方のスウェーデン支配地域では、バルト・ドイツ人の登用などにより、バルト海及びバルト地方の繁栄時代を築いたのである。農奴解放や教育の推進、商業圏の拡大などである。バルト地方においては「幸福なスウェーデン時代」と呼称された繁栄の時代であったが、一方でフィンランドではその様な恩恵は享受出来ず、飢饉や圧政などでフィン人の忿恚が高まり、その支配に軋みが生じて行くのである(当時のフィンランドは、スウェーデンと一体化したスウェーデン=フィンランドを形成していた)。
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