停滞:アメリカ移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:23 UTC 版)
「プラスティック・オノ・バンド」の記事における「停滞:アメリカ移住」の解説
1971年9月、レノンとオノは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移すと、9日に「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド」名義で『イマジン』を、21日には「ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド」名義で『フライ』をリリースした。 10月28日から31日にかけて「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」と「ほら、聞いてごらん、雪が降っているよ」をレコーディングし、アメリカで12月1日に「ジョン&ヨーコ&プラスティック・オノ・バンド・ウィズ・ザ・ハーレム・コミュニティ合唱団」と「ヨーコ&プラスティック・オノ・バンド」名義でリリースした。 12月10日にレノンとオノはミシガン州アナーバーで行われたジョン・シンクレア支援コンサートに出演、さらに12月17日にはニューヨークのアポロ・シアターで行われアッティカ刑務所暴動の犠牲者の家族のためのベネフィットコンサートにも参加した。レノンはこれらの音源も『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』に収録するつもりでミキシングを行ったが、結局実現はしなかった。 12月15日、レノンは世界中をクルーズ船で巡りながら寄港地で地元のバンドとセッションやコンサートを行うという「ザ・ジョン&ヨーコ・モービル・ポリティカル・プラスティック・オノ・バンド・ファン・ショー」の構想を発表した。しかし、当時レノンは大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分中で、自由にアメリカ国外へ出ることができなかったため、地元ニューヨークのロック・バンド、エレファンツ・メモリーやジム・ケルトナーらセッション・ミュージシャンとの活動に限定されてしまった。 1972年3月に『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』のレコーディングを終えると、レノンとオノはセッションに参加していたエレファンツ・メモリーのアルバム制作を4月から5月にかけて行った。「ローカル・プラスティック・オノ・バンド」という曲も録音され、アルバムの最後に収められた。 4月24日、先行シングル「女は世界の奴隷か!/シスターズ・オー・シスターズ」を「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド・ウィズ・エレファンツ・メモリー・アンド・インヴィジブル・ストリングス」名義でリリースしたが、世の中には日常的に差別が存在していることを明らかにする目的で、あえて差別用語「ニガー」を使ったために放送禁止となってしまった。しかし、5月11日にエレファンツ・メモリーを引き連れて出演した「ディック・キャベット・ショー」では、レノンは「女は世界の奴隷か!」を、オノは「ウィー・アー・オール・ウォーター」を披露した。 6月12日にアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』をアメリカでリリースしたが、政治色の強さが災いしたために低評価で、チャートもビートルズ解散以降最低の48位にとどまった。 8月30日、レノンとオノはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた、テレビ司会者ジェラルド・リベラ主催の精神発達遅滞児童を援助するためのチャリティ・イベント「ワン・トウ・ワン」コンサートに「ザ・プラスティック・エレファンツ・メモリー・バンド」として出演した。 9月6日には筋ジストロフィー患者を援助する24時間チャリティTVスペシャル『ジェリー・ルイス・レイバー・デイ・テレソン』にエレファント・メモリーとともに出演した。 その後、レノンは『サムタイム・イン~』への不評、FBIによる監視、そしていくつかの訴訟を抱えたことの影響で創作意欲を失い、1972年10月~11月にかけて行なわれたオノのアルバム『無限の大宇宙』のレコーディングと、1973年3月にロサンゼルスで行われたリンゴ・スターへ提供した「アイム・ザ・グレイテスト」のレコーディングへの参加を除き、音楽活動から遠ざかってしまった。
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