ブレスラウ条約とベルリン条約
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「第一次シュレージエン戦争」の記事における「ブレスラウ条約とベルリン条約」の解説
コトゥジッツの戦いが終結した後、プロイセンはオーストリアとの単独講和交渉への努力を強め、普墺2国の代表は5月末に再びブレスラウで交渉した。フリードリヒ2世は今度はシュレージエンのほぼ全域とグラーツ伯領を要求し、マリア・テレジアは譲歩したくなかったものの、イギリス公使の第3代ハインドフォード伯爵ジョン・カーマイケルはプロイセンと講和し、対仏戦争に集中するようマリア・テレジアに圧力をかけた。イギリスはオーストリアに多額の資金援助(英語版)を提供しており、ハインドフォード伯爵はマリア・テレジアがシュレージエンの割譲に同意しなければイギリスの援助を取り上げると脅した。結局マリア・テレジアは折れ、6月11日にプロイセンとブレスラウ条約を締結して第一次シュレージエン戦争を終結させた。 ブレスラウ条約により、オーストリアはプロイセンにシュレージエンの大半とボヘミアのグラーツ伯領を割譲し、これらの領土は19世紀にプロイセンのシュレージエン州(英語版)として統合された。オーストリアはグラーツ伯領以外のボヘミアを維持、シュレージエンについては南端にあるわずかな領土(クルノフ、オパヴァ(英語版)、ヌィサ(英語版)三公国の一部、およびチェシン公国。後のオーストリア領シュレージエン(英語版))を維持した。また、プロイセンはシュレージエンの資産を担保にしたオーストリアの負債の一部を肩代わりすることに同意し、オーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。これらの合意は1742年7月28日のベルリン条約(英語版)で正式に確認された。
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