ブレスラウ条約とベルリン条約とは? わかりやすく解説

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ブレスラウ条約とベルリン条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:55 UTC 版)

第一次シュレージエン戦争」の記事における「ブレスラウ条約とベルリン条約」の解説

コトゥジッツの戦い終結した後、プロイセンオーストリアとの単独講和交渉への努力強め、普墺2国の代表は5月末に再びブレスラウ交渉したフリードリヒ2世今度シュレージエンのほぼ全域グラーツ伯領を要求しマリア・テレジア譲歩したくなかったものの、イギリス公使第3代ハインドフォード伯爵ジョン・カーマイケルプロイセン講和し、対仏戦争集中するようマリア・テレジア圧力をかけた。イギリスオーストリア多額資金援助英語版)を提供しており、ハインドフォード伯爵マリア・テレジアシュレージエン割譲同意しなければイギリス援助取り上げると脅した結局マリア・テレジア折れ6月11日プロイセンブレスラウ条約締結して第一次シュレージエン戦争終結させた。 ブレスラウ条約により、オーストリアプロイセンシュレージエン大半ボヘミアグラーツ伯領を割譲し、これらの領土19世紀プロイセンシュレージエン州(英語版)として統合された。オーストリアグラーツ伯領以外のボヘミア維持シュレージエンについては南端にあるわずかな領土(クルノフ、オパヴァ英語版)、ヌィサ英語版三公国の一部、およびチェシン公国。後のオーストリアシュレージエン英語版))を維持したまた、プロイセンシュレージエン資産担保にしたオーストリア負債一部肩代わりすることに同意しオーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。これらの合意1742年7月28日ベルリン条約英語版)で正式に確認された。

※この「ブレスラウ条約とベルリン条約」の解説は、「第一次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「ブレスラウ条約とベルリン条約」を含む「第一次シュレージエン戦争」の記事については、「第一次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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