ボヘミア=モラヴィア戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:55 UTC 版)
「第一次シュレージエン戦争」の記事における「ボヘミア=モラヴィア戦役」の解説
10月中旬、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスからの援軍とともにウィーン近くで野営していて、ウィーンを包囲する用意もできていたが、自身が請求していたボヘミアが一部ザクセンとプロイセンに奪われることを憂慮した。また、フランスはオーストリアを弱体化したかったが滅亡は望まなかったため、ウィーンへの総攻撃に反対した。そのため、バイエルン=フランス連合軍は10月24日に北へ転進し、プラハに向けて進軍した。これにより、バイエルン、フランス、ザクセン軍は11月にプラハ周辺に集結し、包囲の末11月26日にプラハ城を陥落させた。12月7日にはカール・アルブレヒトがボヘミア王として戴冠した。一方、フリードリヒ2世は11月初にプロイセン領シュレージエンとザクセン領モラヴィアの国境線について交渉し、同時にフランスとバイエルンからプロイセンによるシュレージエン全体とボヘミアのグラーツ伯領(英語版)の奪取への支持を引き出した。 フランス=バイエルン連合軍が占領地を拡大する中、フリードリヒ2世は講和交渉で相対的に不利になることを恐れ、オーストリアがクラインシュネレンドルフの密約を公開したと称して協定の無効を宣言した上で南方のボヘミアとモラヴィアに向けて進軍した。12月、シュヴェリーン軍はズデーテン地方を経由してモラヴィアに進軍、27日には首府オルミュッツを占領、レオポルト軍はボヘミア辺境のグラーツ(英語版)要塞を包囲した。1742年1月、皇帝選挙(英語版)がフランクフルト・アム・マインで行われ、カール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝に当選した。 1742年2月5日にヴィシャウ(英語版)でザクセン=フランス連合軍と合流したフリードリヒ2世はモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめた。しかし、フランス軍は非協力的な態度をとり、2月15日にイグラウを占領した後ボヘミアへ撤退してしまった。プロイセン軍とザクセン軍はモラヴィアにおけるオーストリア軍の拠点であるブリュンに進軍したが、補給が不足し、オーストリアがブリュンに相当な実力を有する駐留軍を残したため、包囲は進まなかった。ザクセン軍は3月30日に包囲を放棄してボヘミアに撤退、以降7月に戦争から脱落するまでボヘミアに居座った。結局、連合軍がモラヴィア戦役で大した成果を上げられないまま、4月5日にはプロイセン軍もボヘミアと上シュレージエンへ撤退した。 連合軍のモラヴィアへの進軍が失敗すると、カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン(フランツ・シュテファンの弟にあたる)はオーストリア・ハンガリー兵3万を率いて、モラヴィア経由でボヘミアへ進軍、プロイセン軍を追い払ってプラハを奪回しようとした。5月初、フリードリヒ2世とレオポルト率いるプロイセン軍2万8千はプラハの南東にあるエルベ川の平原に行軍し、オーストリア軍の進軍を阻止した。5月17日、オーストリア軍がコトゥジッツ(英語版)近くでレオポルトの軍営に攻撃を仕掛けると戦闘が始まり(コトゥジッツの戦い)、プロイセン軍は勝利したが両軍とも多くの損害を出した。24日にはヨハン・ゲオルク・クリスティアン・フォン・ロプコヴィッツ率いるオーストリア軍がザハーイの戦いでフランス軍に敗れており、これにより連合軍はプラハを完全に確保、オーストリアは連合軍をボヘミアから追い出す手段を持たない状況になった。
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