ボヘミア王国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:45 UTC 版)
「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ボヘミア王国との戦い」の解説
ルドルフのローマ王としての最初の任務は、東方で勢力を拡大するオタカル2世に勝利を収めることであった。1246年にオーストリア公国を支配していたバーベンベルク家の男子が断絶した後、オタカルはバーベンベルク家の公女マルガレーテと結婚し、婚資としてバーベンベルク家の領土を獲得した。1261年にオタカルはマルガレーテと離婚するが、離婚の後も旧バーベンベルク領と領地から上がる収入を確保する権限を保持していた。このオタカルの旧バーベンベルク家領の獲得を、ルドルフは不当なものと見なした。 1274年11月にルドルフはニュルンベルクで帝国会議を開催し、諸侯に不当に獲得した神聖ローマ帝国の財産の返還を呼びかけ、国王と諸侯の教義を経た再授与を試みた。オタカルにも出頭を求めるが、オタカルは会議の場に姿を現さなかった。ルドルフはオタカルの帝国会議への参加の拒否、封土(レーン)授与の申請の怠りを咎め、1274年11月に彼に帝国追放令を出した。 アウクスブルクで開かれた帝国会議にもオタカルは出席せず、ゼッカウ(ドイツ語版)司教を弁明の使者として派遣した。会議の場でゼッカウ司教がラテン語による弁明を述べ始めたとき、ルドルフは「場にいる大勢の人間が理解できない」ラテン語での弁明を止めさせた。反教皇の感情を持ち、これまで外国人がローマ王に立候補していた状況に不満を抱く者が多い帝国諸侯を、ドイツ語とラテン語を対比させる手法でまとめ上げ、反オタカルの意思を一体化させた。オーストリアの貴族と高位聖職者も次第にルドルフを支持し始め、民衆の間にもルドルフに対する好意が浸透していった。1276年6月、ルドルフは出頭に応じなかったオタカルに重帝国追放令を出し、オタカルがボヘミア王に即位した後に獲得した領地の没収を宣告した。同1276年にルドルフは諸侯を率いてウィーンの包囲に向かい、同年11月にオタカルは降伏した。 オタカルを下したルドルフはオーストリアにラント平和令を公布し、貴族たちに厚い待遇を提示して懐柔を図った。都市や修道院に対しても寛大な態度を取り、オタカルに厚遇された勢力を味方に引き入れることに努めた。一方、オタカルへの帝国追放令が取り消されると、オタカルはルドルフとの再戦に向けて軍備を整え、ニーダーバイエルンのハインリヒらオタカルの支持者もルドルフに反抗した。オタカルはハプスブルク家とプシェミスル家の婚姻の計画を破棄し、家臣と同盟国を集めてウィーンに向けて進軍した。1278年8月26日にマルヒフェルトの戦いでルドルフはボヘミア軍を迎撃して勝利を収め、オタカルを戦死させる。さらにルドルフはボヘミア・モラヴィアに進軍するが、戦況が膠着し、両軍は和平を結んだ。この時、ハプスブルク家とプシェミスル家は両家の和解を促すために合同結婚式を執り行い、ルドルフの息子ルドルフはオタカルの娘アグネス(アネシュカ)と、ルドルフの娘グタ(ユッタ)はオタカルの子ヴェンツェルと結婚した。
※この「ボヘミア王国との戦い」の解説は、「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「ボヘミア王国との戦い」を含む「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
- ボヘミア王国との戦いのページへのリンク