ボヘミア王の圧迫、近隣諸国との反ボヘミア同盟結成
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「ボルコ2世マウィ」の記事における「ボヘミア王の圧迫、近隣諸国との反ボヘミア同盟結成」の解説
だが、ボヘミア王ヨハンの圧力から身を守ろうとするボルコ2世の試みは失敗し、ヨハンは1331年にドイツ騎士団と同盟して(騎士団はポーランドを足止めする役割を担った)、シレジアに遠征した。この時期のボルコ2世の行動は詳しく判っていないが、ヨハンのシレジア進軍はさほど容易なものではなかった。ニェムチャ包囲とグウォグフでの攻防戦は予想したより長くかかり、おまけにボヘミア国王軍は和議の場であったカリシュに到着するのが遅れてしまった。結局、ボヘミア王が自国の領域に併合出来たのはグウォグフ公国のみだった。 1336年、ボルコ2世の同名の叔父であるジェンビツェ公ボルコ2世がボヘミア王に臣従し、ジェンビツェ公は臣従と引き換えにグラーツ郡を獲得した。この臣従はポーランドの新国王カジミェシュ3世が、シロンスクに対する要求権の一部を放棄したことに乗じて行われたものであった。 孤立状況に追い込まれながら、ボルコ2世はポーランド、ハンガリーと共に反ボヘミア同盟を結成するための策動を続けた。自らの国際的地位を高めるため、1338年6月1日、ボルコ2世はハプスブルク家の一員であるオーストリア公レオポルト1世の娘アグネスと結婚した。ハプスブルク家はルクセンブルク家の主要なライバルであり、オーストリアとシュタイアーマルクを獲得して力を増していた新興貴族家門であった。地位向上は早くも効果を現し、ボルコ2世の領国に住む商人達はハールィチ周辺まで取引範囲を広げることが出来るようになった。1345年1月1日、ボルコ2世の外交努力は実を結び、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世、ポーランド王カジミェシュ3世、ハンガリー王ラヨシュ1世(カーロイ1世の息子)の公式の同盟が成立した。
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