ボヘミア楽派
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クラシック音楽 |
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ボヘミア楽派(―がくは、英語:Bohemian school)は、ボヘミアにおける作曲家のうち、民族性・地域性と国際的水準との両立を目指した人材の総称。17~18世紀の「旧ボヘミア楽派」(Old Bohemian school)と、19~20世紀初頭の「ボヘミア楽派」の二つがあり、一般的には後者のことを言う。
19世紀のボヘミア楽派は、シュクロウプによる国民オペラの模索を経て、スメタナによって、標題音楽と歌劇、性格的小品の創作を中心とする方向性が確定された。フィビフはこの方向にわりあい忠実に従ったが、ドヴォルザークが最晩年になるまで、(室内楽や交響曲、協奏曲といった)絶対音楽の分野において、民族主義的な表現の可能性を追究した。しかしながら最晩年のドヴォルザークは、交響詩とオペラの作曲に戻っている。
20世紀初頭にドヴォルザーク周辺の、従来の国民楽派の発想に飽き足らなくなった作曲家を軸にして、ボヘミア楽派は崩壊した。ヤナーチェクとノヴァークは、ボヘミア中心主義に疑問を呈してモラヴィアの民族音楽を調査・分析し、スクとオストルチルはごく初期の例を除いて国民楽派から離れ、表現主義音楽へと接近した。フェルステルは教師として同時代の新ドイツ楽派への接近を推奨し、ハーバはノヴァークとシュレーカーの耽美主義を経て微分音の利用に進んだ。マルチヌーはフランス新古典主義音楽の洗礼を受けている。こうしてボヘミア楽派の後継者たちは、西欧楽壇のモダニズムやアヴァンギャルドに合流した。
ボヘミア楽派
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チェコに民族主義への動きをもたらしたのはドイツ人の哲学者・神学者のヨハン・ゴットフリート・ヘルダー (1744 - 1803)であった。彼はナショナリズムの思想をもたらしただけではなく、チェコ民謡の収集を行った。その成果が「古代の民謡」(1773/74年)、「民謡集」(1778/79年)、そして「歌に宿る民衆の声」(1807年)であった。 これを引き継いだのがボヘミアのフランティシェク・ラディスラフ・チェラコフスキー(英語版) (1799 - 1852) の「スラヴの民族歌」であり、スメタナやドヴォルザーク、ヤナーチェクに多大な影響を与えた。これにモラヴィアのフランティシェク・スシル(英語版) (1804 - 1868) の「モラヴィアの国民歌謡」(1835年)とボヘミアのカレル・ヤロミール・エルベン (1811 - 1870) の「ボヘミアの歌と俚謡」(1844 - 1864年)が続く。前者に基づく「モラヴィア二重唱曲集」はドヴォルザークが世に出る契機となり、後者エルベンのバラッドに基づきドヴォルザークは4曲の交響詩を作曲している。 プラハでは、1813年にカール・マリア・フォン・ウェーバーがスタヴォフスケー劇場(英語版)の指揮者となり楽壇がやや活気を取り戻すと、それとともにチェコ語によるチェコ国民のための国民オペラに対する要請の気運が高まり(いうまでもなく、ウェーバーはドイツの国民オペラ「魔弾の射手」の作曲家である)、いくつかのドイツ語オペラをチェコ語に翻訳して上演するなどの試験的な動きの後、1826年、ついにフランティシェク・シュクロウプ (1802 - 1862) のチェコ語オペラ「鋳掛け屋(チェコ語版)」が初演された。シュクロウプが1833年に書いた劇音楽「フィドロヴァチカ(チェコ語版)」の中の「わが故郷よいずこ」は、後にチェコスロヴァキア共和国の国歌の一部となり、分離独立後はチェコ共和国の国歌となった。 こうした動きに呼応して、様々な組織作りも始まった。男声合唱団「フラホル(チェコ語版)」が1860年にニンブルク(英語版)の町で結成され、プラハ、プルゼニでもこれに続いた。1862年にプラハに国民劇場の仮劇場が開幕する。1863年、当時有名なピアニストであったベドルジハ・スメタナ (1824 - 1884) を中心に芸術家協会(チェコ語版)が創設され、スメタナはその音楽部長となった。1866年にオペラ「売られた花嫁」が初演され、同年にスメタナは国民仮劇場の指揮者に就任し、劇場付属の歌唱学校を設立した。これにより彼の名はチェコの国民楽派の創始者として不動の地位を占めることになった。アントニン・ドヴォルザーク (1841 - 1904)、ズデニェク・フィビフ (1850 - 1900) がこれに続き、ボヘミア楽派と総称される。 一方モラヴィアでは、パヴェル・クシーシュコフスキー (1820 - 1885) がスシルの音楽を模範として、モラヴィアの民俗歌謡を合唱に編曲、演奏する啓蒙活動を行っていた。レオシュ・ヤナーチェク (1854 - 1928) はこのクシーシュコフスキーの教えを受けた。チェコ音楽は、個性豊かな優秀な音楽家を得て、国民音楽の黄金期を迎える。 一口にボヘミア楽派と言ってもその思想は大きく二つに分けられる。スメタナは、民俗芸術は現代の作曲技法を採用すべきで民謡に基づくべきではないと主張し、チェコの伝説や民話を主題にドイツ・オーストリア流の技法による標題音楽作品を創作した。フィビフもこれと同じ立場を採った。彼らも作品中で民謡や古い音楽を引用しなかったわけではない。最も有名な例は「わが祖国」の第5曲「ターボル」でのフス派の賛美歌「汝ら、神の戦士よ」である。ターボルはフス教徒の根拠地でカトリックに対する強固な抵抗運動が行われた地で、作品は彼らの抵抗を描写している音楽である。また「モルダウ」でもポルカが響くが、これも農民の結婚式を描く場面で用いられる。このように伝統音楽の引用は、標題となった物語を描くための極めて具体的な場面で用いられているのが特徴である。このため保守派からはチェコの伝統を軽視していると批判され続けた。 これに対してドヴォルザークは、スラヴの民謡を民族的遺産として積極的に活用し、標題を持たない抽象的な絶対音楽の中でもこれを主題とした作品を創作している。既述のとおり、拍節構造が明確なボヘミア民謡は、ロマン派音楽の主題として用いるのに適しており、哀調を帯びた響きはその作品に特別な魅力を与えた。ドヴォルザークの音楽は、作曲家ヨハネス・ブラームスや音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックといった当時のドイツ・オーストリア楽壇の中心人物を魅了し、その助力を得て、チェコの音楽を広く世界中に知らしめることとなった。 こうした立場の違いには、彼らの出自が影響している。スメタナはビール醸造技師の裕福な家庭に生まれ、フィビフの父親は貴族に仕える森林管理官であった。彼らは普段ドイツ語で生活しており、チェコ語はあまり理解できなかった。このため、民謡の言葉や魅力を理解できず、その力を信用しきれなかった。一方、ドヴォルザークの生家は肉屋と宿屋を営む家庭であり、日常的にチェコ語を話すばかりか、父親が旅人相手に得意なツィターで民謡を演奏するといった環境に生まれ育った。このため、彼は民謡の魅力を知悉し、その力を信用しきることができたのだった。 スメタナの理念はフィビフに受け継がれ、ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル (1859 - 1951)、オタカル・オストルチル (1879 - 1935)といった作曲家に継承されていった。ドヴォルザークの音楽は、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク (1870 - 1949)、ヨゼフ・スク (1874 - 1935)、オスカル・ネドバル (1874 - 1930)といったプラハ音楽院の弟子に引き継がれていった。 20世紀にはいると、フィビフの弟子の一人で、カレル大学の音楽学の教授にして歴史家、後に文化大臣にも就任したズデニェク・ネイェドリー(英語版)によるドヴォルザーク批判が起こる。国民音楽は詩や歴史とともにあるべきで、標題音楽こそが国民音楽であって、ドヴォルザークの絶対音楽はこれに値しない、という内容のものであった。こうした批判にドヴォルザーク研究の権威であったオタカル・ショウレク (Otakar Šourek) が激しく反発し、ドヴォルザークの交響曲は「抽象的な標題音楽」であり、彼こそチェコの伝統音楽を継承するものだと称賛し、論争が起こった。ヴラディミール・ヘルフェルト(英語版)は、ドヴォルザーク擁護派の立場から、ドヴォルザークの音楽は民衆層出身の楽士たちの中から自然に生まれ出た響きであるとして、スメタナもドヴォルザークもチェコ音楽創造の父であると位置づけた。
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