ドヴォルザークの立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:55 UTC 版)
「アントニン・ドヴォルザーク」の記事における「ドヴォルザークの立場」の解説
スメタナがビール醸造技師の息子であり、フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ、日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活し、チェコのフォークロアから離れた生活をしていたことは、「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測される。これに対して、ドヴォルザークの生家は旅館を営んでおり、ツィターの名手であった父親は、旅人のために民謡や舞曲を演奏して聴かせていた。また、ドヴォルザークは肉屋の修行の過程でドイツ語を勉強していることからも明らかなように、日々の生活ではチェコ語を話していた。こうした環境下に育った彼は、交響曲や弦楽四重奏曲といった古典的形式を用いながら、チェコ語のイントネーションに基づく主題や民族舞曲のリズムをそこに持ち込み、違和感なく構成し得たのであった。 こうした中、ブラームスの目にとまった作品が「モラヴィア二重唱曲集」であったことは注目に値する。この作品は「モラヴィア」というタイトルではあるが、モラヴィア民謡の特徴はあまり強くなく、むしろボヘミア的あるいは西欧音楽的な拍節構造のはっきりした音楽にモラヴィア音楽の旋法や和声を部分的に用いた折衷的な作品である。この作品がブラームスによって西欧に紹介されたことで、彼の音楽の方向性は決定づけられた。すなわち、彼の人気作曲家としての名声を決定づけた「スラヴ舞曲」に代表されるスラヴ民謡風の主題をブラームス流の古典的な様式に織り込んだ異国趣味的な音楽を出版社や聴衆は要求し、ドヴォルザークはドゥムカなどのウクライナ民謡をも取り込み汎スラヴ主義でこれに応えた。また、後にアメリカに渡った後は、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌に触れて自らの音楽に取り込んで見せた。こうした立場は、しかし「進歩派」には、「民謡の単なる引用と模倣」からなる「保守派」的な立場であるかに思われた。「ボヘミア楽派」と総称され、個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの、スメタナとドヴォルザークの音楽上の立場は異なっていた。
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