ドヴォルザークの登場までとは? わかりやすく解説

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ドヴォルザークの登場まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:55 UTC 版)

アントニン・ドヴォルザーク」の記事における「ドヴォルザークの登場まで」の解説

チェコの音楽界に民族主義持ち込まれたのは、18世紀後半ドイツの哲学者で神学者でもあったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された「民族精神」の概念によってであったヘルダーチェコ民謡採集しアンソロジーの形で発表した。これに刺激され19世紀になるとチェコ人自らが民謡収集出版を行うようになった19世紀末から20世紀初頭には、スメタナフィビフドヴォルザークヤナーチェクといった才能の開花つながっていった。 このようなチェコ国民音楽形成過程のなかで、個々作曲家たちにとっては、民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていった。保守的な伝統主義者であった作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは「民族色を打ち出すには民謡単なる引用模倣で十分である」と主張し一定の支持得ていた。これを真っ向から否定したのがスメタナである。スメタナ1865年に「民謡旋律リズム模倣により国民様式形成されるのではない」と表明標題音楽創作することで国民性獲得しようとした。すなわち、音楽題材としてはチェコ民族の持つ歴史詩歌民話などを採用するが、技法的にはあくまでも西欧音楽技法によることで、チェコ国民音楽広くヨーロッパ知らしめようと考えたのである。そこでは、民謡引用舞曲リズム使用は、具体的な場面描写限定して用いられている。こうした標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれフィビフらがこの思想同調したこうした立場は、先述リーゲルやその思想受け継いだフランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判さらされ、「進歩派」対「保守派」の論争となった

※この「ドヴォルザークの登場まで」の解説は、「アントニン・ドヴォルザーク」の解説の一部です。
「ドヴォルザークの登場まで」を含む「アントニン・ドヴォルザーク」の記事については、「アントニン・ドヴォルザーク」の概要を参照ください。

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