ドヴォルザーク批判と擁護、論争
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「アントニン・ドヴォルザーク」の記事における「ドヴォルザーク批判と擁護、論争」の解説
論争の口火を切ったのはフィビフに師事したこともあるカレル大学音楽学教授で文化大臣をも務めたズデニェク・ネイェドリーであった。歴史家でもあった彼はチェコの歴史や詩歌を尊重するスメタナら「進歩派」の急先鋒であり、ドヴォルザークの存命中である1901年から批判論文を書き始めている。ネイェドリーの批判に対してドヴォルザーク擁護派も論陣を張り、ドヴォルザークの死後、その論争は激しさを増していった。ドヴォルザーク擁護派の代表がオタカル・ショウレクであった。彼は「標題や言葉を伴わない絶対音楽にも標題性は内包されている」と主張し、交響曲第7番と序曲「フス教徒」と主題構成を対比させ、いずれも「愛国心を抱いた音楽家の不屈の感情吐露である」として、標題音楽と絶対音楽という枠組みに意味のないことを主張した。 こうした論争は、チェコが国家として独立を果たすまで繰り返されたが、チェコスロバキアが成立すると国民性に拘泥する必要がなくなり、またヤナーチェクが民俗学的な手法を用いて収集したモラヴィア民謡を解体再構築するという、ドヴォルザークの手法をより徹底した作曲技法を確立するに至り、論争は下火になった。
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