才能の開花(1919-1935)
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「三井美代子」の記事における「才能の開花(1919-1935)」の解説
1919年(大正8年)1月23日、東京にて3人きょうだい(兄・姉)の末っ子として生まれる。父・三井純一は慶應義塾大学卒の電力会社社員で、三井家はたびたび引っ越しし、美代子が小学4年生の時に静岡県沼津市に居を移した。学生時代野球部員だった純一は、沼津市体育協会理事を務めるなどスポーツに熱心な人物であった。 尋常小学校時代はスポーツで特に目立った実績を残していないが、静岡県立沼津高等女学校(沼津高女、現・静岡県立沼津西高等学校)へ進学後、同校の体操教師・塩飽吾一が「跳び方が不思議に軽く関節のバネが非常に強い」のを見い出した。塩飽が見い出した時点ではまだ記録は平凡だったが将来性を見込まれて、2年生になった1932年(昭和7年)に静岡県下女子中等学校陸上競技大会に走高跳で出場、1m30を跳んで注目されるようになった。 3年生になった1933年(昭和8年)時点では身長150 cm未満、体重36.9 kgの小柄な選手ながら、1m46を記録して相良八重・広橋百合子を抑えて同年の日本女子走高跳十傑の首位に立った。同年秋に日本での大会に招かれたスタニスラワ・ワラシェビッチ(ポーランド)が沼津高女に来校し、陸上競技部40人を指導した。ワラシェビッチは日本の女子選手を「食べ過ぎて走れぬ」と酷評したが、美代子には「まだまだ伸びますよ」と声をかけて励ました。4年生になった1934年(昭和9年)11月の日本女子オリンピックでは80mハードルと走高跳の2冠を達成した。同年の日本女子十傑で、80mハードル(12秒7)で1位、三段跳(11m08)で2位、走高跳(1m45)で3位に入り、織田幹雄から評価された。なお、この年にマークした80mハードルの12秒7は生涯ベストとなった。
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