ボヘミア王位への野心とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ボヘミア王位への野心の意味・解説 

ボヘミア王位への野心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 05:08 UTC 版)

ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事における「ボヘミア王位への野心」の解説

父が1296年死去した時はまだ5歳だったため、母エルジュビェタ父方叔父後見人ボルコ1世摂政として公国統治した。しかし、1301年ボルコ1世急死し、母エルジュビェタ1304年死去した1301年から1302年にかけて幼いボレスワフ3世後見人となっていたのはヴロツワフ司教ハインリヒ・フォン・ヴュルベンだったが、ヴュルベンは濡れ衣を着せられ司教地位追われた。この時期までにボヘミア王ヴァーツラフ2世が、豊かで戦略上も重要なヴロツワフ公国支配するようになった1302年、幼いボレスワフプラハ宮廷送られ、翌1303年1月13日ヴァーツラフ2世7歳末娘マルケータ婚約した2人結婚式5年後1308年執り行われた。 ボレスワフ3世ボヘミア宮廷現れマルケータ王女婚約して以後ヴァーツラフ2世はこの未来の婿を寵愛し始めた。その寵愛ぶりは王の近しい男性親族達を恐れさせるほどで、彼らは若いレグニツァ公ボヘミア次期国王候補として有力なライバルとなることを悟らされた。息子後継者としては不適格だ思っていたヴァーツラフ2世1300年からはポーランド王を兼ねた)が1305年急死し、翌1306年息子ヴァーツラフ3世オロモウツ暗殺されると、ボレスワフ3世ボヘミア王位狙えきわめて重要な立場になったボレスワフ3世は「ポーランド王位相続者(haeres Regni Poloniae)」を名乗りボヘミア王継承争い参加した。 しかしレグニツァヴロツワフ公の勢力は、オーストリアルドルフ3世ケルンテン公ハインリヒ6世ルクセンブルク家ヨハンといった、プシェミスル朝後継者名乗りを上げ他の候補達に太刀打ちできるものではなかった。ポーランドにおける後継者となるという目論見も、1306年から1307年にかけてカリシュ支配下収めるのに失敗しグウォグフ公ヘンリク3世敗北したため、成し遂げられずに終わった1308年オパヴァミクラーシュ1世屈服させてオパヴァ(トロッパウ)を得たが、3年後1311年6月11日ボレスワフ3世オロモウツでの和約締結に際して8000本という莫大な賠償金引き換え同地域を放棄したオパヴァボヘミア王冠領併合された後、1318年になってミクラーシュ1世息子ミクラーシュ2世与えられた。

※この「ボヘミア王位への野心」の解説は、「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の解説の一部です。
「ボヘミア王位への野心」を含む「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事については、「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ボヘミア王位への野心」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ボヘミア王位への野心」の関連用語

ボヘミア王位への野心のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ボヘミア王位への野心のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボレスワフ3世ロズジュトヌィ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS