自国文化の回復運動
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「ルーマニアの文化」の記事における「自国文化の回復運動」の解説
トランシルヴァニアでは、ルーマニア人が人口の大部分を占めていたにもかかわらず、地域一帯を支配していたオーストリア人からは存在を容認されるのみで、政治やトランシルヴァニア議会に意見を反映させることはできなかった。18世紀の終わり、トランシルヴァニア学派 (Şcoala Ardeleană) と呼ばれる解放運動が設立され、ルーマニア人がローマ人に由来することを強調し、ラテン語をもとにした近代的なルーマニア文字を普及させようとした。ルーマニア文字はやがて、古く用いられたキリル文字に取って代わられるようになった。また、トランシルヴァニアのルーマニア教会がローマ教皇のもとにつくことを受け入れ、これによってルーマニア・ギリシャカトリック教会が成立した。1791年、オーストリアのレオポルト2世に対し、フランスの人間と市民の権利の宣言に基づいて、トランシルヴァニアのルーマニア人に他民族と同等の政治的権利を認めるよう要求する請願書 (Supplex Libellus Valachorum) を出した。しかし、ルーマニア人はローマ帝国だけでなく、古代のダキア人にもルーツをもっており、1600年代から1800年代にかけては、オスマン帝国やファナリオティスに代表されるように、東欧の影響を強く受けていた。それゆえ、この解放運動は徐々に西欧化としての向きが強くなっていく。 18世紀の終わりから19世紀のはじめまで、ワラキアとモルダヴィアは、ファナリオティスの君主の支配下に置かれていた。したがって、この2つの地域は、ギリシャから大きな影響を受けている。公国にはギリシャ語の学校が設置され、ゲオルゲ・ラザルやイオン・エリアーデ・ラドゥレスクが、ブカレストに初となるルーマニア語の学校を設立したのは1818年になってからであった。当時、小説家としてアントン・パンが成功したほか、イエニャチタ・ヴァカレスクはルーマニア語をはじめて用い、彼の甥のイアンク・ヴァカレスクは初の本格的なルーマニア語詩を書いた。1821年、オスマン帝国の支配に反発して、ワラキア蜂起が発生する。この蜂起は、ルーマニアの革命家で民兵の指導者であったトゥドル・ウラジミレスクが指揮した。 1848年革命はルーマニアの公国やトランシルヴァニアにも波及し、19世紀の革命以降には新たな著名人が出現する。作家・政治家・ルーマニア初代首相のミハイル・コガルニセアヌ、政治家・劇作家・詩人のヴァシレ・アレクサンドリ、記者で現在の国歌を作曲したアンドレイ・ムレシャヌ、歴史家・作家・革命家のニコラエ・バルチェスクらがその代表である。 1859年にモルダヴィアとワラキアが統合してルーマニア公国が成立すると、ルーマニアの生活様式や文化も統一が進んだ。ヤシとブカレストに大学が開設され、文化施設の数も大幅に増加した。1866年にルーマニア国王として即位したカロル1世は芸術に理解があり、妻のエリサベタとともに重要な後援者となった。1863年に文学批評家のティトゥ・マイオレスクは、仲間とともに文学サークル「ジュニメア(青年の意)」を設立し、ルーマニア王国に大きな影響を与えた。ジュニメアは文化雑誌『文学講演 (Convorbiri Literare)』を発行し、ルーマニアを代表する詩人のミハイ・エミネスクや、作家のヨン・クリヤンガ、小説家で劇作家でもあるイオン・ルーカ・カラジアーレが多くの作品を発表した場として知られている。同時期に、ニコラエ・グリゴレスクやシュテファン・ルキアンは、近代ルーマニアの絵画を確立した。作曲家のチプリアン・ポルムベスクも当時活躍した人物である。 トランシルヴァニアでは解放運動の組織化が進んだ。1861年には、ルーマニア正教会の大司教であったアンドレイ・サグナによって、シビウでASTRA(ルーマニア人のルーマニア文学・文化トランシルヴァニア協会)が設立された。この組織は数多くのルーマニア語書籍や新聞に対して出版を手助けし、1898年から1904年にかけてルーマニア語百科事典を編纂した。この時代の著名な人物として、作家・記者のイオアン・スラヴィチ、作家のパナイト・イストラティ、詩人・記者のバルブ・ステファニスク・デラブランチャ、詩人・記者のジョルジェ・コシュブク、詩人のシュテファン・オクタヴィアン・ヨシフがいる。また、ジョルジェ・バリットとバデア・カルタンは、もともとトランシルヴァニア南部の羊飼いに過ぎなかったが、トランシルヴァニアのルーマニア語新聞を創設し、歴史家として活動するうちに、解放運動の象徴とみなされるようになった。 C・A・ロゼッティ イオン・エリアーデ・ラドゥレスク カリストラト・ホガシュ ドゥイリオ・ザムフィレスク アレクサンドル・オドベスク ヴァシレ・アレクサンドリ ミハイ・エミネスク ヨン・クリヤンガ イオン・ルーカ・カラジアーレ マテイウ・カラジアーレ イオアン・スラヴィチ ティトゥ・マイオレスク ジョルジェ・コシュブク アンドレイ・ムレシャヌ チプリアン・ポルムベスク ジョルジェ・バリット ニコラエ・グリゴレスク シュテファン・ルキアン
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