宗教改革からナポレオン時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 20:35 UTC 版)
「ゲーセケ」の記事における「宗教改革からナポレオン時代まで」の解説
宗教改革の時代には、1564年に初めてルター派の教えがゲーセケに広まった。 新たに選出されたケルン選帝侯エルンスト・フォン・バイエルン(ドイツ語版、英語版)の下で、1584年にゲーセケで領邦会議が開催された。トゥルフゼス戦争(ドイツ語版、英語版)(ケルン戦争とも呼ばれる)でこの街は、1591年にオーバーシュタイン伯の軍によって占領され、多額の軍税を支払わなければならなかった。1608年、本市の女子修道院は修道院学校(トリヴィアルシューレ)を創設した。1613年にペスト禍がふたたびゲーセケを襲い、またも多くの犠牲者を出した。 三十年戦争では、ゲーセケは1622年にディートリヒ・オットマール・フォン・エルヴィッテの指揮の下、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンと戦った。ブラウンシュヴァイク公はこれ以前にパーダーボルン、ゾースト、リップシュタットを陥落させていた。1622年4月6日と9日の攻撃は、必死の抵抗のため失敗した。ゲーセケは当時占領されることなく存続したヴェストファーレン唯一の都市であった。このできごとを感謝・記念して、現在も復活祭後の第3日曜日にローベタークのパレードが行われている。このパレードは市の土塁を越えて、シュタイン門、ルイーディッシャー門、フィー門を巡る。1633年にゲーセケは8日間包囲された後、ヘッセン方伯ヴィルヘルムの手に落ちた。 1633年、ゲーセケのヨハン・クラーネがウィーンで帝国顧問官会議(ドイツ語版、英語版)の顧問官に任命され、これに基づき皇帝からの全権を委任されミュンスターでの「ヴェストファーレン条約」の交渉に参加した。 1635年から1636年に3回目のペストの流行が起こり、多くのゲーセケ住民が死亡した。1637年、本市にフランシスコ会修道院が設立された。1664年にはディックマン商館が建設された。1686年8月19日に選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ(ドイツ語版、英語版)が 5クラスのギムナジウム設立を認可したことを承け、1687年にフランシスコ会が運営するギムナジウム・アントニアヌムが開校した。ただし校舎の建設と維持はゲーセケ市が負担することとされた。市はこのギムナジウムの名称にパドヴァの聖アントニウスを選んだ。 1689年8月30日、ゲーセケで大火災が起こり、市の 1/4 が焼失した。1699年には赤痢がゲーゼケで流行し、約2ヵ月の間に130人の死者が出た。 ゲーセケでは、1604年から1712年まで魔女狩りが行われ、1618年/1619年、1670年/1671年、1691年からの3回の裁判手続きがなされた。1618年から1619年の魔女裁判についての記録書類だけが遺されている。1618年に放浪者の女性アーデルハイト・ルンテが犠牲となった。合計では、少なくとも54人が被告人となり、32人が処刑された(女性 14人、男性と子供 16人)。魔女裁判の時代の文化史的に価値ある証拠が、土塁の東壁にある火薬塔である。この塔は「魔女塔」とも呼ばれ、言い伝えによれば、表向き魔法使いとして告発され、捕らえられた人物がここに収監されたとされる。「魔女ゲーセケ」という慣用句が生まれたが、実際には当時ゲーセケで過度に多くの魔女狩りがなされたという証拠は存在しない。 1705年にマリア=ヒルフ礼拝堂が完成した。ゲーセケ出身でパーダーボルンの補佐司教であったマインヴェルク・カウプは、1733年にアプディングホーフ修道院の院長となり、1745年までこの職を務めた。 世俗化に伴い1802年にケルン大司教領が廃止された後、ゲーセケを含むヴェストファーレン公領はヘッセン=ダルムシュタット方伯領となった。1806年には 447戸、2,741人が住んでおり、このうち 2,593人がカトリック、134人がユダヤ教、14人がルター派を信仰していた。
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