宗教戦争における主権と国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:11 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」も参照 近代初期になると、君主が国内の権力が徐々に君主に集中して絶対王政が確立するに従い、中世的秩序は徐々に崩壊し近代国家が成立する。 フランスでは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世が1219年ローマ法の適用を禁止し、神聖ローマ皇帝に対する独立性を擁護するための理論を模索した。フィリップ4世は、レジストと呼ばれるローマ法学者を重用し、君主の神聖ローマ皇帝、ローマ教皇からの対外的独立性を擁護するための理論の確立を図り、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'États généraux)を開催した。1303年のアナーニ事件をはじめとするバビロン虜囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜した。ガリカニスムではローマ教皇に対しフランス教会の自立を主張した。 マルティン・ルター等の宗教改革により、カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らぎ、宗派間の対立が激化し、多くの宗教戦争が起った。1555年、宗派間対立の妥協として、アウクスブルクの和議により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という領邦教会制が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。 ジャン・ボダンはユグノー戦争の時代に、教会や帝国から独立した国家の本質的特徴そを主権とした最初の思想家である。1576年にボダンは『Les Six livres de la République(国家論)』で「主権(souverainete)とは国家(Republique)の絶対的かつ恒久的権力である」と定義した。また同書ラテン語版(1586年)では「統治大権 (majestas)とは、市民と臣民に対する最高にして且つ法 (の拘束) から解放された権力(legibusquesolutapotestas)である」と定義する。ボダンはsouverainetieと共にmajeste(至上権、尊厳、権威)やsumma potestas(最高の権能)も同義語として使っている。これに対してJ.アルトジュースは1603年『政治方法論解説』でボダンのいう絶対的つまり最高にしてすべての法から解放された権力は専制政治であると批判し、神法・自然法こそ最高法であるとした。ただし、ボダンは国家を「主権的権力をもってするところの正しき統治」と定義するが、その究極の基準として神法・自然法重視の大前提があるともいわれる。他方ボダンは暴君もまた主権者であるとするが、これは当時の戦争における無政府状態に対して「世界で最悪の暴政よりも悪しきもの」としており、戦争のなかの無政府状態における危機を克服するものは、絶対的な国家権力としての主権のみであることを念頭に置くべきである。こうしてボダンによって君主主権が確立し、中世には消滅していた公権力が復活し、近代的民族国家すなわち絶対主義国家が成立していくことになった。 1648年、ヨーロッパの主要国が参加した三十年戦争の講和条約として、ヴェストファーレン条約が締結された結果、ヴェストファーレン体制という勢力均衡の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則、主権国家体制が形成された。ヴェストファーレン条約によって神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権威が否定され、独立した国家(Staat)が帝国(Kaisertum) に代わって成立した。 17世紀フランスでは、ルイ14世が絶対王制を確立し、自国内の最高統治権を把握した。「朕は国家なり」との言葉のとおり王権神授説に基づき主権を有する君主=国家と考えられていた。主権概念は絶対主義体制を正当化する原理として登場し、その過程で主権概念を原理とする国民国家 nation-stateが誕生した。 ホッブズは、ボダンの主権論と社会契約説を結びつけて、絶対王制を擁護した。ホッブスは分割された諸権力は相互に滅ぼしあうとして主権分割説に反対した。その後、ロックやモンテスキューによって立法権と執行権と裁判権などに統治権力を分割した権力分立論が形成された。フランス革命に影響を与えたルソーは主権を意志(一般意志)とみなし、主権は分割されえない不可分の単一のものであり、主権者は統治者ではなく人民であると述べた。
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