宗教改革からヴァイマル共和政まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 17:03 UTC 版)
「エクスタータール」の記事における「宗教改革からヴァイマル共和政まで」の解説
1522年からレムゴーではルター派の教義に基づく神事が行われ、1533年からはリッペ伯領全域で改革派の教義が導入された。領主のジーモン6世は、1605年に公式に福音主義改革派教会に帰依した。これにより、「cuius regio, eius religio」(領主の宗教が、その支配地の宗教となる)の原則に従い、ルター派から改革派への改宗が行われた。ただ、古いハンザ都市レムゴーだけはルター派にとどまった。 15世紀の領主たちは、その領土の中央集権化を進め、シュテムベルク城は領主の代官の所在地となった。このアムト(代官所あるいはその管区を指す)は、現在のジリクセンとアルメナを除くエクスタータール全域とデーレントルプを統治した。いくつかの村においては、国家権力は土着の農民裁判官によって行使された。あらゆる法律違反がアムトに報告された。 慢性的な資金難から、領主であるリッペ伯ジーモン・ハインリヒ・アドルフは1733年にシュテルンベルク城を、グレートブリテン王ジョージ2世を当主とするハノーファー家に質入れした。牛車で運ばれた41万シルバーターラーの金と引き替えに、イングランド王はアムト・シュテルンベルクの全ての権利を獲得した。1734年から1782年に統治したジーモン・アウグスト伯は1781年にこれを買い戻し、イギリスによるシュテルンベルクの支配を終了させた。 アムト・シュテルンベルクの文書からは、住民の著しい連続性が読み取れる。1940年には土着の住民の全員近くが、17世紀初めのエクスタータール住民の子孫であった1600年から1800年までの間、人口は連続的に増加した。その原因は、リンネル産業の導入により、亜麻栽培、紡績、織布などの仕事を得たことで、多くの住民の生活環境が改善されたことによる。1590年に 2,347人だった人口は、1807年には 537の集落に 4,238人が住むまでになった1700年頃にはすでに、家内工業や手工業に従事するエクスタータール住民の数は、農業に従事する住民数を凌駕し、ジリクセンにおけるその比は 4:1にまで達した。しかしその後、エクスタータールの住民は1850年頃に家内産業の衰退に見舞われた。多くの人々がアメリカへの移住のチャンスを探し求めた。19世紀後半に 1,000人以上のエクスタータール住民が USA に新たな故郷を求めた。 もう一つの収入源となった仕事が「リッピシェ・ツィーグラー」と呼ばれる渡りのレンガ工であった。大都市では、活発な建設工事が行われており、レンガ工の需要が増していた。1840年から1940年頃まで、多くのエクスタータールのレンガ工が暖かい時期に大都市に出かけ、家族を養った。彼らの多くはエクスタールに家を持つことができる境遇にあった。1840年から1933年までの間に、66の新たな集落が形成され、従来の木組み建築は、石造(またはコンクリート造)の建物工事のために破壊された。村では、20世紀前半に典型的な建築様式のレンガ工の家が支配的になった。たとえば、1896年に建造されたベージングフェルトの旧牧師館などである。 第一次世界大戦後の世界経済危機の進行に伴い、出稼ぎのレンガ工の仕事も重要性を失い、交通の便が悪いこともあってエクスタータールに高い失業率がもたらされた。1927年のエクスタータール鉄道の建設は、こうした状況を改善した。白-赤の動力車によってバルントルプからリンテルンに至る標準軌の鉄道は、エクスタールの村々をレーネ – ハーメルン線やビーレフェルト – レムゴー – ハーメルンの鉄道路線に結びつけた。
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