宗教改革からフランス革命まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:26 UTC 版)
「ハム (ヴェストファーレン)」の記事における「宗教改革からフランス革命まで」の解説
ハムでは1553年に宗教改革がなされた。大きな市教会聖ゲオルクおよびラウレンティウス教会(現在のパウルス教会)は「改革された教区教会」と改名され、これ以後ハムの強力な改革派組織の集会所となった。新しいルター派教会が1562年にオランダのカルヴァン主義者カレル・ガルスを牧師に選ぶと、聖像破壊運動が興った。これによって、この教会の芸術作品のほぼすべてが破壊された。 1557年に飢餓が、1558年には度重なる火災がこの街を苦しめた。その少し後、領主であるクレーヴェ、マルクおよびラーヴェンスベルク公ヨハンに対するリンネル織り職人のツンフト代表による陳情に端を発したパン職人とリンネル織り職人の争いにより、市は苦労して獲得した特権を1570年に失うこととなった。その結果、ハムの自治権は縮小され、領主の絶対支配の余地が生まれた。 早くも八十年戦争でハムは戦闘に巻き込まれ、この都市周辺を含むヴェストファーレン地方は1587年から繰り返し荒廃させられた。スペイン軍司令官でオランダ総督のアレッサンドロ・ファルネーゼは1587年に軍をハムの前にまで進軍させた。彼はこの街を征服しようとし、街は身代金を支払った。1598年、略奪を行うスペイン兵はハムの北に位置するキルヒシュピール・ヘーセンを荒廃させた。1600年頃の魔女狩りの犠牲者のためにハム=ヘーセンに記念碑が建立されている。1609年にマルク家の男系血統が断絶するとその伯領はユーリヒ=クレーフェ継承戦争によりブランデンブルク選帝侯領となった。選帝侯は1614年にオランダへの援軍を要請され、その軍は9月23日にハムに宿営した。1618年の戦争勃発後、1648年まで様々な軍勢がハムを占領した。三十年戦争終結のヴェストファーレン条約によってようやくブランデンブルクによる領有の主張が認められた。しかしマルク家の遺産問題が最終的に解決したのは、分割協定が結ばれた1666年のことであった。ハムはブランデンブルク領に残留し、その兵舎を有していた。この兵舎は伝統的に歩兵連隊で構成され、その後当時のプロイセンのナンバーリングの導入によって、1646年から歩兵第9連隊となり、マルク伯領から徴兵された。 1650年にハムで最初の書籍印刷業者が確認される。1657年には、法学、神学、哲学の3つの専門学部を持つ大学ギムナジウム・イルストレ・アカデミクムが設立された。こうした発展は、この街の新たな繁栄と同時に、戦後の領邦復興にかける領主の努力を示すものでもある。この大学は、1781年まで存続したが、それ以前の1766年からすでに学生は登録されていなかった。この学校は、中世から存続していたラテン語学校に統合された。現在の人文系ギムナジウム・ハモネンゼがその後継である。 1701年、ブランデンブルク選帝侯領は、プロイセン王国に移行した。1718年にハムは、毎年交替する議会の替わりに永続的なマギストラート (Magistrat) 制度を導入した。 1741年にハムは、この街の発展を繰り返し阻害する災厄の1つに見舞われた。今度は大規模な都市火災であった。旧ハンザ都市時代の古いゴシック様式の市庁舎や346棟の家屋が犠牲となり、パウルス教会の塔や市文書館も灰燼に帰した。数多くの民家が石造りで再建された。この火災を教訓に1743年に火災条例が制定された。プロイセン政府は自治体行政に関する命令を発令し、1753年にハムを郡庁所在地とするハム郡が設立された。これに加えて、ハム地方裁判所や1787年にはメルキシェ戦争・邦有地管理局が設けられた。その総裁には初めシュタイン男爵が任命された。1760年代の七年戦争(1756年 - 1763年)は、新たな街の破壊と、それに伴う防衛施設の強化をもたらした。最終的には1772年に新しい兵舎が建設され、兵舎の周囲には防衛施設が設けられた。これはそれまでの市民の住宅に設けられた。兵舎建設のための資材を調達するためにマルク城は破壊された。1803年にはその最後の基礎壁も撤去された。自然石は、岩の乏しいリッペマルシュでは高価である。
※この「宗教改革からフランス革命まで」の解説は、「ハム (ヴェストファーレン)」の解説の一部です。
「宗教改革からフランス革命まで」を含む「ハム (ヴェストファーレン)」の記事については、「ハム (ヴェストファーレン)」の概要を参照ください。
- 宗教改革からフランス革命までのページへのリンク