宗教戦争とサーマーン朝への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:01 UTC 版)
「カラハン朝」の記事における「宗教戦争とサーマーン朝への攻撃」の解説
960年頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である于闐(ホータン)を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した。于闐は同じ仏教国である天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結んで優位に立ち、969年9月に于闐の攻撃を受けたカラハン朝の君主Tazik Tsun Hienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于闐の手に渡った。 サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した。992年にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市ブハラとサマルカンドを占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。996年に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝からザラフシャーン盆地北部地域を獲得し、999年にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。 998年に大ハンのアリーが于闐との戦争で落命し、カシュガルは仏教徒の反乱に乗じた于闐軍によって占領される。アリーの跡を継いだアフマド1世はブハラに援軍を要請し、ブハラの宗教指導者ムハイディンら4人のイマームに率いられた40,000の志願兵によって于闐軍からカシュガルを奪回した。カラハン朝は1006年までにホータン、11世紀半ばにクチャを征服し、仏教徒が多数を占める地域のテュルク化・イスラーム化が促進される。于闐が滅亡した後もホータンでは長らく仏教徒の反乱が続いたが、最終的に仏教徒の抵抗は失敗し、イスラム教への改宗を拒否する人間の大部分は他の国に亡命した。 于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った。 当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた。1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフ、ニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した。1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。 マー・ワラー・アンナフルを中心とする西部はアリーの一族、ベラサグン、カシュガルを中心とする東部はハサンの一族が支配する体制が敷かれていたが、11世紀半ばにカラハン朝は完全に東西に分裂する。東西に分裂したカラハン朝は互いに争い、10世紀半ばから行われていた異教徒に対する聖戦は終息する。
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