攻囲戦と要塞砲撃
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1914年(大正3年)9月1日、山東半島北側の龍口に先発隊が上陸。神尾光臣中将(後に大将)指揮する第十八師団(約29,000名)は9月11日に龍口に上陸した。青島のある山東半島南側は機雷やドイツ軍艦艇により上陸に障害があることを念慮に入れ、あえて遠回りとなる安全な北岸に上陸した。9月27日より日本軍は龍口から青島に向けて偵察を繰り返しつつゆっくりと前進を開始。翌9月28日には青島市背後の生命線である浮山と孤山のドイツ軍前線に到達した。浮山と孤山からは青島市が見下ろせてしまうため決死の反撃が予想されたが、あえなく陥落。日本軍は、強力な火砲を有するドイツ軍要塞を攻略するための攻囲陣地構築にとりかかったが、折からの豪雨で陣地は流失し、工期は1か月に伸びてしまったもののようやく完工した。ここへ、労山湾から上陸させた破壊力の大きな榴弾砲、カノン砲、山砲が続々と到着した。攻撃開始までの間、日露戦争での鬼気迫る突撃を知っている日本内外の記者や観戦武官、新聞を読んだ国民から、神尾には「なぜ部隊を突撃させないのか。旅順攻囲戦の激戦を知っているせいで臆病風に吹かれたのか」という疑問が多く寄せられた。 ドイツの青島要塞攻略にあたり、日本陸軍は、充分な砲がないため白兵戦による出血を強いられた日露戦争の旅順攻囲戦と異なり、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要とした。日本軍は当初計画されていた第十八師団、野戦重砲兵連隊1つ、攻城部隊若干という構成から、ヨーロッパでの第一次世界大戦の最新の戦況を見て、より強力な攻城砲を多数追加、さらに工兵独立大隊や鉄道連隊も追加していた。 10月31日、「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上で、第十八師団と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約4,300名であった。最新鋭の移動容易な攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、重火器による砲撃によりドイツ軍要塞は無力化された。ドイツ軍将校は戦後「余の砲台は(日本陸軍の砲撃により)ほとんど破壊されてしまった!」と感嘆したほどだった。 10月31日夜半には第一攻撃陣地が陥落。明治天皇誕生日の11月3日には第二攻撃陣地が陥落。青島要塞の前面には保塁が南北に並び、その背後の山々には砲台が作られ、特にそれらの砲台群の後方のモルトケ山とビスマルク山に最も強力な砲台があったが、初日から日本軍の砲弾を浴びせられ、11月1日午後にはビスマルク山砲台はほぼ戦闘力を喪失し、11月5日には「全弾を打ち尽くして砲台を爆破し撤退せよ」との命令でビスマルク山砲台の兵は退却した。11月6日、青島要塞総督ヴァルデック海軍大佐は、タウベ偵察機に秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させた。タウベは脱出に成功し、青島要塞には二度と戻らなかった。11月7日午前6時30分、ドイツ軍は白旗を掲げ、午前9時20分にドイツ側軍使のルードヴィヒ・ザークセル大佐とカイゼル少佐が日本側軍使の香椎浩平少佐に降伏状を届ける。 11月7日午後7時50分に両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。 戦後の、陸軍技術審査部所属の伊勢喜之助砲兵中佐による砲撃効果調査では、密集して着弾させた砲弾によっても分厚いコンクリートの掩蔽を破壊するのは難しかったものの、大砲や機関銃座はほぼ戦闘能力を失っていた。保塁も場所によっては原形をとどめないまでに破壊されたところもあった。青島要塞攻撃で攻城砲兵の発射した総鉄量は1,601.236トン、砲弾数43,019発で、旅順攻囲戦の砲弾数(210,511発)・総鉄量(4,000トン)に比べると砲弾数では少なかったものの、大口径弾が多かったために総鉄量では4割にも達していた。青島の数日で、旅順の6か月分の4割もの鉄を撃ちこんだ計算になる。砲台の前に歩兵を突撃させて多数の犠牲を出して長引いた旅順攻囲戦とは異なり、青島では歩兵が突撃する前に砲撃で決着がついており、陥落も早かった。
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