クトゥーゾフ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:13 UTC 版)
「ルミャンツェフ作戦」の記事における「クトゥーゾフ作戦」の解説
ドイツ軍によるクルスク突出部への攻勢作戦、城砦作戦が失敗に終わるとソ連軍は反撃を開始した。7月12日、中央軍集団第9軍、第2装甲軍の防衛するオリョ―ル地区の解放をめざした攻勢作戦、クトゥーゾフ作戦を発動。ソ連軍の西部方面軍(司令官、ソコロフスキー上級大将)がボルホフとホトイネッツを攻撃しブリャンスク方面軍(司令官、ポポフ上級大将)と共同でオリョール湾曲部の切断をめざした。中央方面軍(司令官、ロコソフスキー上級大将)も攻勢に参加する予定となっており、ソ連軍は3個軍128万の戦力でオリョ―ル地区のドイツ軍59万の包囲殲滅を試みた。オリョ―ルのドイツ軍陣地にたいし、ソ連軍は攻撃部隊を二~三個の梯団に区分し連続攻撃をかけた。攻撃部隊は濃密な火力支援を受け、1個狙撃兵連隊の支援に平均で3~5個の砲兵連隊が投入された。ソ連軍はいまだかつてない規模の火力集中を実現させ、第11親衛軍だけでも64個砲兵連隊の支援をうけ、24㎞の攻勢正面に6000門の野砲・ロケット砲が展開した。この時点でソ連軍首脳部は複数の梯団による連続攻撃と砲兵火力の一極集中を連動させた、新たな攻勢理論を生み出しつつあり、縦深攻撃のひな型ともいえる大攻勢が開始された。2日間の攻勢でソ連軍はドイツ軍を城砦作戦の攻勢開始地点まで押し返し、中央正面軍が北西方面から攻勢に参加。第9軍司令官モーデル元帥は懸命に防戦しながら、オリョール湾曲部からの退却を開始し、8月5日にはオリョ―ルが陥落した。第9軍と第2装甲軍はソ連軍の包囲を逃れハーゲン・ラインへと撤退したが、14個師団を喪失する大損害を受けていた。
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