1917年の革命憲法とカランサの退場
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「メキシコ革命」の記事における「1917年の革命憲法とカランサの退場」の解説
「ツィンメルマン電報」、「en:Battle of Ambos Nogales」、および「バナナ戦争」も参照 支配権を握ったカランサだが、彼の派閥のなかでも新たな対立が生じていた。カランサ派は新しい憲法の制定に乗り出していたが、カランサの意に反して、彼の陣営の将軍たちの制定した憲法は、私有財産絶対の思想を否定し、大土地所有者に国家が介入して農地改革を行なう道を開き、労働者の権利保護を謳うなど、彼らの敵であったビリャ派やサパタ派の主張を大幅に取り込んだ進歩的な内容となっていた。貧しい農民や労働者たちを糾合した軍を実際に率いていた将軍たちは、もっぱら後方での指揮に終始していたカランサと違い、メキシコの大衆が何を求めているのか熟知していた。これが、その後のメキシコの政治体制の基本となった1917年の革命憲法である。革命政権は強力な基盤を持つカトリック教会を敵視し、政教分離政策を推し進めた。1917年の革命憲法では外国人司祭の活動や宗教教育以外の教育への関与などが禁止された。 カランサは、事実上この憲法の内容を無視して政治を進めた。ビリャ派が瓦解した後、モレーロス州の山中でゲリラ戦を続けていたエミリアーノ・サパタは、1919年4月10日、「サパタ派に寝返りたい」と称して接近してきた政府軍の将校に不意打ちを受け、非業の死を遂げた。 詳細は「シウダー・フアレスの戦い (1919年)(英語版)」を参照 この間カランサの求心力は急激に低下する一方、実質的にビリャ派との戦闘を指揮し、柔軟な考え方で農地改革などの社会改革の必要性を強く認識していたオブレゴン将軍の人望が高まる。この状況に危機感を抱いたカランサは、オブレゴンを政府から退け、さらに大統領に立候補しようとするのを妨害し、逮捕しようとする。1920年1月、オブレゴンは故郷のソノラ州に逃亡して、4月にはカランサに対する反乱を宣言する。ほとんどの将軍たちはオブレゴンにつき、ビリャ派とサパタ派の残党もオブレゴン派についた。わずか一ヶ月後にはカランサ大統領は首都メキシコ市から撤退に追い込まれ、港町ベラクルスに向かうが、ベラクルス州知事もオブレゴン派に付き、カランサはプエブラ州の山中を逃げまどったあげく、反乱軍に射殺された。
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