1917年9月〜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 00:48 UTC 版)
「パッシェンデールの戦い」の記事における「1917年9月〜」の解説
9〜10月の作戦においては「bite and hold」(噛って維持する)と呼ばれる新戦略が採用された。これは敢えて小規模な前進を行いその都度予想される反撃を撃退することで、戦果を積み重ねて行こうという発想に基づいていた。消耗し尽くしたヒューバート・ゴフ将軍の第五軍には第二軍が応援に投入され、作戦指揮も第二軍司令官ハーバート・プルーマー将軍が執ることとなった。 連合国軍はこの時点で同戦域に1,295門の砲を集めており、これは凡そ攻撃正面4.5mにつき1門に相当した。9月10日のメニン街道の戦いでは、大規模な砲撃に続く攻撃で約1.35km前進したが、ドイツ軍による抵抗もまた激しく、21,000人の損害を出した。この頃のドイツ軍は半永久的な陣地帯を構築しており、大変深く掘られた待避壕とコンクリート製のトーチカ群を備え、それを支援する砲兵は両軍陣地の中間地帯を正確に射界に収めていた。 続いて突出部南東のポリゴンの森の戦い(英語版)とブローツァインデの戦い(英語版)における攻撃では、連合国軍は約1.8km前進したのと引き換えに30,000人の損害を出した。大量の流血と引き換えに連合国軍は戦線をパッシェンデール付近まで進めていた。10月9日に実施されたランゲマルク=プールカペレ(en:Langemark-Poelkapelle)に対する連合国軍の攻撃は陰惨な失敗に終わり、疲れ果てた兵士たちは僅かな前進の後撃退された。
※この「1917年9月〜」の解説は、「パッシェンデールの戦い」の解説の一部です。
「1917年9月〜」を含む「パッシェンデールの戦い」の記事については、「パッシェンデールの戦い」の概要を参照ください。
- 1917年9月〜のページへのリンク