1917年の政治と講和の試み
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「第一次世界大戦」の記事における「1917年の政治と講和の試み」の解説
4月7日、ヴィルヘルム2世はイースター勅語(ドイツ語版)で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、ロシア二月革命とドイツの四月ストライキ(ドイツ語版)によりドイツ社会民主党が城内平和政策を引き締めたため、ゴータでドイツ独立社会民主党が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党(ドイツ多数派社会民主党(英語版)と呼ばれるようになった)は平等な公民権利、議院内閣制への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した「無併合、無賠償、民族自決」の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が「社会民主党を支配下に置くことができなくなった」と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークはクロイツナハ会議(ドイツ語版)で軍部に押されて議事録に署名した。ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー(英語版)によると、その議事録は併合について「まったく貪欲な」文書であったという 1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている(シクストゥス事件)。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた。 7月6日、中央党のマティアス・エルツベルガーが国会で演説を行った。エルツベルガーは保守派の政治家であり、「勝利の平和」を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の進歩人民党が多党派委員会(ドイツ語版)で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは「革命の始まり」とされた。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで普通選挙を行う保証を受けた(プロイセンではそれまで選挙が3等級(英語版)に分けられて行われた)。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名なゲオルク・ミヒャエリスだった。 7月19日、ライヒスターク平和議案(英語版)が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義のドイツ祖国党(英語版)が結成されるなどの影響があった。8月1日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世はド・ル・デビュー(ドイツ語版)という使徒的勧告(英語版)を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動(負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など)、そして戦争を「無用な流血」だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった。 ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任したゲオルク・フォン・ヘルトリングだった。 12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日にはフィンランドがロシアからの独立を宣言した。
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