ヴィトゥス・ベーリングとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 探検家 > 探検家 > ロシアの探検家 > ヴィトゥス・ベーリングの意味・解説 

ベーリング【Vitus Jonassen Bering】

読み方:べーりんぐ

[1681〜1741]ロシア探検家デンマーク生まれカムチャツカ探検隊隊長となり、1728年ベーリング海峡達しアジアアメリカ陸続きでないことを確認した


ヴィトゥス・ベーリング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 15:14 UTC 版)

ヴィトゥス・ベーリング
Vitus Bering
ヴィトゥス・ベーリング(復元肖像画)
洗礼 1681年8月5日
ホーセンス
死没 (1741-12-08) 1741年12月8日(60歳没)
ロシア帝国 ベーリング島
著名な実績 シベリア探険
配偶者 Anna Bering
テンプレートを表示

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリングロシア語: Витус Ионассен Беринг, デンマーク語: Vitus Jonassen Bering, 1681年8月 - 1741年12月19日(ユリウス暦12月8日[注釈 1]))は、デンマーク生まれのロシア帝国航海士探検家

1725年から1730年まで、また1733年から1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸アメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。

ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海ベーリング海峡ベーリング島ベーリング地峡などがある。

生涯

1681年、デンマークのホーセンスに生まれる。1703年アムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、同年、ロシア海軍に入隊。大北方戦争ではバルチック艦隊(バルト艦隊)の一員として戦った。1710年から1712年にかけて大尉としてアゾフ艦隊ロシア語版に所属し、オスマン帝国と戦う。1712年より再びバルト艦隊に所属。ロシア人女性と結婚した後、1715年に一度故郷に戻るが、以後、再び故郷を訪れることはなかった。

最初の探検

1725年1月、ピョートル大帝の命令により、カムチャツカオホーツクへの探険隊を率いてサンクトペテルブルクを出発。陸路でシベリアを横断した後、1727年1月にオホーツクに到着する。そこで冬を越した後、カムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに聖ガヴリール号を建造。

1728年夏、カムチャツカ半島東岸から北に向けて出発し、その途上で、カラギン湾ロシア語版カラギン島クレスタ湾ロシア語版アナディル湾、聖ラヴレンチイ島(セントローレンス島)などを発見する。船はそのまま北上し、ユーラシア大陸アメリカ大陸とのあいだの海峡(ベーリング海峡)を通過してチュクチ海に入った。さらに西方に進みコルイマ河口まで行かなければアジアとアメリカが陸続きではないことを確認できないと主張したチリコフの意見をしりぞけベーリングは引き返すことに決定した[1]

1729年、一行はカムチャツカ半島の南部を回り、カムチャツカ湾ロシア語版アヴァチャ湾を発見。それから、オホーツクを経由して、1730年夏、ベーリングは重い病気に冒されながらもペテルブルクに帰還した。

2度目の探検

1733年、ベーリングはアレクセイ・チリコフロシア語版とともに、アメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検に出発。千島列島の地図の作成と日本への海路の探索の任務を受けたマルティン・シュパンベルクロシア語版デンマーク語版も一緒であった。

1734年トボリスクからヤクーツクへ出発。探検の準備のため、ヤクーツクに3年間留まった。1740年秋、オホーツクより、2隻の船、聖ピョートル号ロシア語版(聖ペトロ号)と聖パーヴェル号(聖パウロ号)に乗ってカムチャツカ半島東岸に向かう。探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、冬を越した。この場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーである。

1741年6月4日、ベーリングの率いる聖ピョートル号と、チリコフの率いる聖パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発。1741年6月20日、深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失った。7月17日、聖ピョートル号はアラスカ南岸に到達。一方、聖パーヴェル号は今日のアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島にたどり着いていた。

聖ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見。1741年8月末、アリューシャン列島の一部を成す、現在のシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇する。また、壊血病で命を落とした船員シュマギンを島に葬る。船員の名にちなんで、ベーリングはその島をシュマギン島(シュマージン島)と名づけた。

1741年9月6日、船はアリューシャン列島を離れて西に向かうが、嵐に遭い、漂流の末、11月にコマンドル諸島無人島にたどり着く。そこで越冬するが、その間に多くの船員が壊血病で次々と亡くなり、続いてベーリング自身も1741年12月6日に息を引き取った。このときの様子は、探検に加わっていたドイツ人の医師であり博物学者ゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーが記録に残している。後に、この島はベーリング島と名づけられた。

生き残った船員たちは、大破した聖ピョートル号の残骸で小型の船をつくって脱出し、1742年8月26日ペトロパヴロフスク・カムチャツキーにたどり着いた。結局、聖ピョートル号に乗り組んだ77人の探検隊員のうち、ペテルブルクに生還したのは45人であった。

1991年8月ロシアデンマーク合同調査団によってベーリングと5人の船員のが発見された。遺体はモスクワに移されて検査され、その結果、死因が壊血病ではなかった可能性がしめされている。また遺骨から推定されるところでは、体つきは頑健で背が高く、顔の輪郭は角張っており、広く流布しているベーリングの肖像画に見られる丸顔とは大きく異なっている。それらの肖像画はベーリングの叔父で作家のヴィトゥス・ペデーセン・ベーリングデンマーク語版 (Vitus Pedersen Bering) をモデルとしている可能性が考えられている[2]

その後、翌1992年9月に彼らの遺骨はベーリング島に再埋葬された[3]

脚注

注釈

  1. ^ この日付は、当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。

出典

  1. ^ L.ベルグ『カムチャツカ発見とベーリング探検』龍吟社、1942年、101頁。 
  2. ^ 調査隊のレポートのあるデンマーク・ホーセンス市のページ Archived 2007年1月8日, at the Wayback Machine.
  3. ^ findagrave.com のベーリングの墓所の項

参考文献

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴィトゥス・ベーリング」の関連用語

ヴィトゥス・ベーリングのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴィトゥス・ベーリングのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴィトゥス・ベーリング (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS