最初の探検
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1689年7月6日、ラサールはセネカの商人から教わった地域への、最初の探検に向かった。24人の同行者とカヌーを準備して、セントローレンス川からオンタリオ湖へ渡り、35日後、オンタリオ湖南岸のセネカ川に着いた。そこにはセネカ族の集落があったが、セネカ族は、ラサールが西の方へ探検を続けることを思いとどまらせ、オハイオカントリーに行くのは望ましくないと告げた。彼らの警告や、案内人を出してくれと頼んで拒否されたにもかかわらず、ラサールはナイアガラ川へ向かった。そのナイアガラ川でラサールは、セネカ族が、自分たちが襲撃して捕虜としたポタワトミ族を連れて、居住地に戻るのに出くわした。その捕虜が、オハイオカントリーへの探検の案内役に同意したのを見届けて、ラサールは身代金を払ってその男を釈放させた。 そこから一行はさらに西を目指してエリー湖に着き、そこで南に折れた。そこからオハイオ川の支流に着くまでは陸路で、その支流からカヌーで本流へと漕ぎ出した。オハイオに着くと、ラサールは西へとさらに進み、現在のケンタッキー州ルイズビルにあるオハイオ滝に到着した。その先から一行は進むのを拒否し、ラサールを置いてカナダへ戻った。ラサールはそれからほんのわずかの距離を一人で進み、一人でカナダに戻った。しかしラ・サールのオハイオ川の発見は、現代の歴史家からは認められていない。
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最初の探検
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「ヴィトゥス・ベーリング」の記事における「最初の探検」の解説
1725年1月、ピョートル大帝の命令により、カムチャツカ、オホーツクへの探険隊を率いてサンクトペテルブルクを出発。陸路でシベリアを横断した後、1727年1月にオホーツクに到着する。そこで冬を越した後、カムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに聖ガヴリール号を建造。 1728年夏、カムチャツカ半島東岸から北に向けて出発し、その途上で、カラギン湾(ロシア語版)、カラギン島、クレスタ湾(ロシア語版)、アナディル湾、聖ラヴレンチイ島(セントローレンス島)などを発見する。船はそのまま北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とのあいだの海峡(ベーリング海峡)を通過してチュクチ海に入った。さらに西方に進みコルイマ河口まで行かなければアジアとアメリカが陸続きではないことを確認できないと主張したチリコフの意見をしりぞけベーリングは引き返すことに決定した。 1729年、一行はカムチャツカ半島の南部を回り、カムチャツカ湾(ロシア語版)、アヴァチャ湾を発見。それから、オホーツクを経由して、1730年夏、ベーリングは重い病気に冒されながらもペテルブルクに帰還した。
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最初の探検
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「ジョサイア・ハーラン」の記事における「最初の探検」の解説
1820年、ハーランは最初の探検に出かけた。父親は彼のために東側行きの商船の船乗員を確保し、インドのカルカッタ、中国の広州へ出航した。この最初の探検から帰った後、次の探検に備えている間に彼は恋に落ちた。次の探検から帰ったあとに結婚する約束をしたが、カルカッタにいるときに婚約者が約束を破り別の人と結婚した知らせを受けた。この知らせを受け、ハーランはアメリカへ帰国しないことを誓った。そして、その代わりを東側への探検に求めた。1824年7月、イギリス東インド会社に外科医として入隊した。東インド会社は当時ビルマとの戦争前で、外科医が不足していた。海上で彼は独学といくつかの実践で経験を積んで医師会に出頭して試験を受け、カルカッタ総合病院の外科医に任命された。1825年1月から負傷または病気で離脱するまで、ビルマで軍に勤めた。その間の1826年にヤンダボー条約が締結され終戦した。ハーランは回復後、デリーの北の町カルナルに赴任したが、1826年夏に東インド会社から去った。そして一般人としてインドに留まった。
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