最初の損傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:50 UTC 版)
「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「最初の損傷」の解説
1915年1月30日 には、リューリクはより大規模な機雷敷設作戦のため、敷設部隊を護衛してダンツィヒ湾へ向けて出撃した。今回は護衛のアドミラール・マカーロフにも100 個の機雷を搭載し、各々100 個の機雷を搭載したオレークとボガトィーリ、それに140 個の機雷を搭載した艦隊水雷艇ポグラニーチュニク、シビールスキイ・ストレローク、ゲネラール・コンドラチェーンコ、オホートニクからなる特務半小艦隊と艦隊水雷艇ノヴィークがそれに続いた。 航路は深い霧に閉ざされていたが、リューリクに先導された分遣隊はその状況下では許容度を越えるほどの高速である16 knで進んでいた。それも、以前のアドミラール・マカーロフの経験を生かさず、測鉛による測深なしに航行していた。 この海域の危険を認識していたアドミラール・マカーロフでは、先を行くリューリクの行動の奇妙さを恐らくは大きな驚きをもって見ていた。1907年に近くの海域で発生した皇室ヨット・シュタンダールトの事故が思い出された。この艦もまた、海図に載っていない水面下の岩礁に乗り上げ、すんでのところで沈没を免れたのであった。 2月1日 午前4時近く、フォリョ燈台 沖を航行していたリューリクは、悪天候による視界不良もあり、計算ミスから16 knの速度で艦底を水面下の岩へぶつける座礁事故を起こした。これによって作戦は中止となり、分遣隊は5 knの速度で濃霧の中フィンランド湾まで引き返した。リューリクの艦内には2400 tの海水が流れ込んだが、2月2日 夕刻には自力でレーヴェリまで辿りついた。同日、ドイツの艦隊は出撃していて洋上にあったが、今度は霧が幸いして敵に発見されずに済んだ。この事故のため、リューリクはクロンシュタットにて船渠入りして修理を受けることになった。 作戦中止により、2月16日 までに特務半小艦隊が140 個の機雷をタンツィヒ湾に敷設したに留まった。
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