ポツダム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 01:10 UTC 版)
「プロイセン王立造兵廠」の記事における「ポツダム時代」の解説
この造兵廠はハーフェル川に注ぐ排水溝の東側にある、合流地点の近くの土地に建てられた。建設と同時に国王は、この排水溝を輸送路、ポツダム運河(ドイツ語版)へと拡張させ、未舗装道路、「アン・デア・ゲヴェーアファブリーク」(現在のホフバウアー通り)を敷設させた。舗装は40年後に実施されている。 2階建ての独立した建築群から構成される工廠の定礎は、早くも1722年3月26日に行われた。国王は募集したカトリックの労働者のため、自身の出資で設立させた小さな教会堂をもって施設を補完する。 同年、先行建築である衛戍教会が完成した後、運河の向こう岸で、造兵廠の後継者をも育成することになっていた大軍人孤児院(ドイツ語版)の建設作業が始まる。この時代の建物は全て、不安定な土台の上に木組み建築(英語版)様式で建てられた。 最初の損傷は衛戍協会に表れ、取り壊された後に1730年、フィリップ・ゲルラッハ(英語版)の有名な新建築をもって置き換えられた。次々に他の建物も更新を余儀なくされる。造兵廠は、1776年から1780年にかけてゲオルク・クリスティアン・ウンガー(ドイツ語版)が設計した4階建ての堅牢な本館を得た。続いて大きな土地の境界沿いの建築(Brockrandbebauung)が建てられていき、その中庭ではなおしばらくの間、木組みの建物が利用された。1771年から1778年にかけて、軍人孤児院はカール・フォン・ゴンタルト(英語版)の設計で新築された。造兵廠の管理棟は1755年、ヨハン・ゴットフリート・ビューリンク(ドイツ語版)によりブライテ通りとアン・デア・ゲヴェーアファブリーク通りの角地に建てられている。現存していないこの館には国王の委員や造兵廠長官の住居があった。1740年から1785年まで45年の長きにわたって長官を務めたのはヨハン・フリードリヒ・リュッカーであり、その墓はボルンシュテット墓地(ドイツ語版)に現存する。 ポツダムにおける武器の製造は1850年に終了し、町は最大の工場を失った。プロイセンの兵器産業はシュパンダウに集中する。ポツダムの造兵廠は兵舎に改築され、近衛第1歩兵師団(ドイツ語版)の施設群の一つとなった。現在も残されている工廠の本館の一部(ホフバウアー通りとヘンニンク・フォン・トレスコウ通りの角地)は史跡保護の対象であり、2013年現在、ブランデンブルク州インフラ・農業省に利用されている。
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