ポツダム宣言受諾までの経緯とは? わかりやすく解説

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ポツダム宣言受諾までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:50 UTC 版)

日本の降伏」の記事における「ポツダム宣言受諾までの経緯」の解説

詳細は「ポツダム宣言」を参照 1944年昭和19年7月サイパンの戦いサイパン島陥落すると、岸信介国務大臣軍需次官開戦時商工大臣)が東條英機首相に本土爆撃繰り返されれば必要な軍需生産できず、軍需次官としての責任全うできないか講和すべし」と進言した。これに対し東條は岸に「ならば辞職せよ」と辞職迫った。ところが、岸は東條配下憲兵隊脅しにも屈せず辞職要求拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなったしかしながら憲兵隊配下持ち陸軍最大権力者でもある東條内閣総辞職して、後継内閣背後回ったため、その後内閣戦争無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた1944年昭和19年以降連合国軍反攻による日本列島への空襲時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後水面下続いた東條内閣後継となった小磯内閣は、本土決戦準備しつつも、和平工作秘密裏模索した。元陸相であった宇垣一成大陸派遣し中華民国重慶国民政府との和平交渉打診した。そして、サイパン陥落し本土へ連合国軍による空襲本格化した1945年昭和20年3月には南京国民政府高官ありながら、既に重慶政府通じていることが知られていた繆斌日本招き和平仲介依頼した。ところが、重光葵外相繆斌信用せず小磯国昭首相対立し、これも閣内不一致内閣総辞職となったこの間1945年2月元首相近衛文麿中心としたグループは、戦争これ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び“日本赤化”を招く」という危険性訴えた上で戦争の終結求める「近衛上奏文」を昭和天皇献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作察知した憲兵隊により、吉田茂岩淵辰雄殖田俊吉いわゆるヨハンセングループ」が逮捕された。そして昭和前期日本軍政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利見通しの全く立たなくなった戦争を、更に神風特別攻撃隊まで編成して無謀な戦闘継続させた。 1945年4月7日成立した鈴木貫太郎内閣東郷茂徳外相は、日ソ中立条約翌年4月には期限切れても、それまで有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦仲介役として和平交渉行おうとした。東郷個人スターリン日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉機会を既に逸した見ていたものの、陸軍日ソ中立条約終了時もしくはそれ以前ソ連軍満州へ侵攻回避するための外交交渉望んでいたため、ソ連日本連合国との和平仲介すると言えば軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉破綻すれば、日本外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営実質上の降伏となる条件受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワノモンハン事件処理しソ連との和平実現させたという成功体験背景にあったとされる。 翌5月最高戦争指導会議構成員会合首相陸相海相外相陸軍参謀総長海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連中立ソ連確約させるための外交交渉行なうという合意得た当初、これには戦争終結目的として含まれていたが、阿南惟幾陸相が「本土失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため上記2項目のみを目的とすることとなった東郷は、かつての上であった元首相広田弘毅をヤコフ・マリクソ連大使ソ連大使館強羅ホテル疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。 その上6月6日最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持皇土保衛」のために戦争完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導基本大綱」が採択され、それが御前会議正式決定されたため、日本側から早期戦争終結少なくとも表面上は全く不可となった。にもかかわらず矛盾する事に、木戸幸一内大臣東郷外相及び米内光政海相は、第二次世界大戦際限ない長期化憂慮してソ連による和平斡旋へと動き出した木戸からソ連斡旋による早期戦争終結提案受けた昭和天皇はこれに同意し6月22日御前会議ソ連和平斡旋速やかに行うよう政府首脳要請した。 しかし、東郷による広田マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。ただし広田は、1932年昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後会談で、和平斡旋条件として満州国現在の中国東北部)を中立化することをソ連提案している。しかし、マリク政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった7月7日、これを伝え聞いた天皇東郷親書持った特使派遣してはどうかと述べた。そこで東郷外相近衛特使依頼し7月12日近衛天皇から正式に特使任命された。日本外務省は、モスクワ日本大使館通じて特使派遣和平斡旋依頼ソ連外務省伝えることとなったしかしながら、既にソ連は、1945年昭和20年2月ヤルタ会談において、ヨーロッパで戦勝の日から3ヶ月以内対日宣戦することで英米合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立要請や、大東亜戦争停戦講和依頼など受けられるはずがなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルスイスにある在外公館陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報日本送られたり、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官浅井中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部報告されたりしていたが、これらの決定的に重要な情報全て日本軍外務省の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性気付かれないまま捨て置かれいただけであった1945年7月ソ連は、ベルリン郊外ソ連支配地域であるポツダムにおいてポツダム会談主催しイギリスアメリカ合衆国中華民国首脳会談によるポツダム宣言同意するその際ソ連への近衛文麿特使による和平工作について、米英協議しソ連対日宣戦布告まで大日本帝国政府照会放置することとした。 他方帝国政府は、なおもソ連政府による和平仲介期待し続けた。これを受けた東郷最高戦争指導会議閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大な結果惹起する」と発言したが、内閣総理大臣鈴木貫太郎7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し斷固戰争完遂邁進する」と述べ本土決戦備えた8月6日には広島への、8月9日午前11時には長崎への原爆投下があったが、日本の降伏決定付けたのは、8月9日未明ソ連対日参戦であった日ソ中立条約結んでいたソ連の参戦満洲国へ侵攻により、大日本帝国には「全日本軍の無条件降伏帝国政府に対しては「ポツダム宣言受託」という条件付き降伏)」しか選択肢なくなった

※この「ポツダム宣言受諾までの経緯」の解説は、「日本の降伏」の解説の一部です。
「ポツダム宣言受諾までの経緯」を含む「日本の降伏」の記事については、「日本の降伏」の概要を参照ください。

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