ポツダム宣言受諾後の戦闘
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「ソ連対日参戦」の記事における「ポツダム宣言受諾後の戦闘」の解説
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日、終戦詔書が発布された。8月16日、大本営は大陸令第一三八二号により陸軍全部隊に対し「即時戦闘行動を停止スヘシ」と命じたが「止ムヲ得サル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ケス」と自衛戦闘については除外した。その後、大本営は停戦命令を段階的に「強化」し、25日に自衛戦闘を含む一切の戦闘行為を禁止した。樺太では23日、千島では25日までに戦闘が停止したが、満洲では命令伝達の困難から8月末まで戦闘が継続した。ソ連は日本と連合国が降伏文書への調印を行った9月2日の後も作戦を継続し、9月5日、ソ連軍は一方的な戦闘攻撃をようやく停止した。 ソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。この為、日本軍は戦闘行動にて防衛対応する他なかった。[要出典] 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月16日に、昭和天皇・政府・大本営以下、日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊のほぼすべてが、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、全く状況は変わらなかった。すでに17の要塞地区のうち16が陥落し指揮系統は分断され関東軍は危機的状況にあった。[要出典] 8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日午前まで停戦しないと回答した。関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘を停止し、停戦が本格化することとなった。その同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。[要出典] 8月19日の15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続された。結局ソ連軍は、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的な戦闘攻撃を終了した。
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