ポツダム宣言受諾後の戦闘とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ポツダム宣言受諾後の戦闘の意味・解説 

ポツダム宣言受諾後の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 13:56 UTC 版)

ソ連対日参戦」の記事における「ポツダム宣言受諾後の戦闘」の解説

外地での戦闘が完全に収束する前に1945年昭和20年8月14日日本政府ポツダム宣言受諾し、翌8月15日終戦詔書発布された。8月16日大本営大陸第一三八二号により陸軍全部隊に対し即時戦闘行動停止スヘシ」と命じたが「止ムヲ得サル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ケス」と自衛戦闘については除外したその後大本営停戦命令段階的に強化」し、25日自衛戦闘を含む一切戦闘行為禁止した樺太では23日千島では25日までに戦闘停止したが、満洲では命令伝達の困難から8月末まで戦闘継続したソ連日本連合国降伏文書への調印行った9月2日の後も作戦継続し9月5日ソ連軍一方的な戦闘攻撃をようやく停止したソ連最高統帥部は「日本政府宣言受諾政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦兆候認め得ない」との見解表明し攻勢作戦続行したこの為日本軍戦闘行動にて防衛対応する他なかった。[要出典] 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥8月16日に、昭和天皇政府大本営以下、日本軍全て対す戦闘停止命じた。この通達に基づき8月16日関東軍に対して自衛以外の戦闘行動停止するように命令出された。しかし、当時関東軍指揮にあった部隊のほぼすべてが、激し攻撃仕掛けソ連軍抵抗していたため、全く状況は変わらなかった。すでに17要塞地区のうち16陥落し指揮系統分断され関東軍危機的状況にあった。[要出典] 8月17日関東軍総司令官山田乙三大将ソ連側交渉入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日午前まで停戦しないと回答した関東軍ソ連軍停戦急務となったマッカーサー8月18日改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動停止する命令出し、これを受けた日本軍各地戦闘停止し停戦本格化することとなった。その同日ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団北海道上陸命令下達していたが、樺太方面進撃停滞スタフカからの命令により実行されることはなかった。[要出典] 8月19日15:30極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側要求全て受け入れ本格的な停戦武装解除始まった。これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令ソ連軍届いたが、ソ連軍による作戦1945年9月2日日本との降伏文書調印をも無視して継続された。結局ソ連軍は、満洲朝鮮半島北部南樺太北千島択捉国後色丹歯舞全域を完全に支配下置いた9月5日になってようやく、一方的な戦闘攻撃終了した

※この「ポツダム宣言受諾後の戦闘」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「ポツダム宣言受諾後の戦闘」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ポツダム宣言受諾後の戦闘」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポツダム宣言受諾後の戦闘」の関連用語

ポツダム宣言受諾後の戦闘のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポツダム宣言受諾後の戦闘のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのソ連対日参戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS