ポツダム宣言以降
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中華民国領への脱出に成功した駐留フランス軍部隊は、元北部集団軍司令官ガブリエル・サバチエ(英語版)中将の指揮下で雲南省で再建が進められた。第5外人歩兵連隊は本来の3個大隊編成が1個大隊のみに縮小再編された。仏印への反攻の機会をうかがったが、終戦まで実現しなかった。 1945年8月15日の日本降伏と共にベトミンは一斉蜂起し、保大帝を退位させてベトナム帝国を打倒した。しかしすでに降伏していた日本軍はどうすることもできず傍観した。 「ベトナム八月革命」も参照 1945年7月にポツダムで連合国首脳陣による協議が行われ、北緯16度線を境界とした北部の治安維持は蔣介石(中国)、南部は東南アジア地域連合軍(英語版)総司令官ルイス・マウントバッテン(イギリス)に委任されていた。日本軍の武装解除は中国軍とイギリス・インド軍によって行われたが、南部では連合軍の派遣が遅れたためフランス軍部隊の進駐も遅れ、このことがベトミン勢力の拡大をもたらすこととなった。 「マスタードム作戦」も参照 中国領へ脱出した駐留フランス軍がベトナムに進駐したのは1946年になってからであった。
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