2度目の探検
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1670年、ラサールは新たな探検に出発した。ラサール率いる一行は西を目指してエリー湖を渡り、ミシガン湖の南端にたどり着いた。そこから南へ向かったラサールは、ミシシッピ川に出た。ミシシッピ川をずっと下った一行はメキシコ湾に出た。この発見により、実際に大西洋の南に出たという結論に達した 。この探検旅行により、ラサールはミシシッピ川の全長を下った初のヨーロッパ人となったが、ミシシッピ川そのものは、おそらくはクリストファー・コロンブスの航海にまでさかのぼることができた。コロンブスはミシシッピ川南端を訪れていたからである。さらにミシシッピ川中部には、コロンブスより1世紀前にエルナンド・デ・ソトが訪れていた 。
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2度目の探検
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「ヴィトゥス・ベーリング」の記事における「2度目の探検」の解説
1733年、ベーリングはアレクセイ・チリコフ(ロシア語版)とともに、アメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検に出発。千島列島の地図の作成と日本への海路の探索の任務を受けたマルティン・シュパンベルク(ロシア語版、デンマーク語版)も一緒であった。 1734年、トボリスクからヤクーツクへ出発。探検の準備のため、ヤクーツクに3年間留まった。1740年秋、オホーツクより、2隻の船、聖ピョートル号(ロシア語版)(聖ペトロ号)と聖パーヴェル号(聖パウロ号)に乗ってカムチャツカ半島東岸に向かう。探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、冬を越した。この場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーである。 1741年6月4日、ベーリングの率いる聖ピョートル号と、チリコフの率いる聖パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発。1741年6月20日、深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失った。7月17日、聖ピョートル号はアラスカ南岸に到達。一方、聖パーヴェル号は今日のアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島にたどり着いていた。 聖ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見。1741年8月末、アリューシャン列島の一部を成す、現在のシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇する。また、壊血病で命を落とした船員シュマギンを島に葬る。船員の名にちなんで、ベーリングはその島をシュマギン島(シュマージン島)と名づけた。 1741年9月6日、船はアリューシャン列島を離れて西に向かうが、嵐に遭い、漂流の末、11月にコマンドル諸島の無人島にたどり着く。そこで越冬するが、その間に多くの船員が壊血病で次々と亡くなり、続いてベーリング自身も1741年12月6日に息を引き取った。このときの様子は、探検に加わっていたドイツ人の医師であり博物学者のゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーが記録に残している。後に、この島はベーリング島と名づけられた。 生き残った船員たちは、大破した聖ピョートル号の残骸で小型の船をつくって脱出し、1742年8月26日にペトロパヴロフスク・カムチャツキーにたどり着いた。結局、聖ピョートル号に乗り組んだ77人の探検隊員のうち、ペテルブルクに生還したのは45人であった。 1991年8月、ロシア・デンマーク合同調査団によってベーリングと5人の船員の墓が発見された。遺体はモスクワに移されて検査され、その結果、死因が壊血病ではなかった可能性がしめされている。また遺骨から推定されるところでは、体つきは頑健で背が高く、顔の輪郭は角張っており、広く流布しているベーリングの肖像画に見られる丸顔とは大きく異なっている。それらの肖像画はベーリングの叔父で作家のヴィトゥス・ペデーセン・ベーリング(デンマーク語版) (Vitus Pedersen Bering) をモデルとしている可能性が考えられている。 その後、翌1992年9月に彼らの遺骨はベーリング島に再埋葬された。
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