2度目の放浪と帰国とは? わかりやすく解説

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2度目の放浪と帰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:22 UTC 版)

ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「2度目の放浪と帰国」の解説

わずかな生き残りと共にピエモンテ領内にたどり着いたガリバルディであったが、サヴォイア家からは支援拒まれ海外逃れるように勧められた。1850年渡米してニューヨーク市民となり、アントニオ・メウッチ経営するスタテン島の蝋燭工場招かれ運営手伝ったが、ほどなく再び戦い身を投じる事を望み始めたその後、船を手に入れ、ジュゼッペ・パーネを名乗って何度太平洋へ航海出発複数資料は彼が遠く離れたオーストラリアバス海峡訪れたことを記している。ペルーではアンデス革命ヒロイン革命家シモン・ボリバル恋人だったマヌエラ・サエンス(英語版)とも知り合った1854年3月21日欧州向けて出発したガリバルディは、タイン川経由してイングランド北東部位置するノーサンバーランド州(現タイン・アンド・ウィア)のサウス・シールズ船団率いて入港したガリバルディアメリカ国籍船長として身分行動し船団にも星条旗掲げられていた。とはいえ、既にフランス軍寡兵破ったガリバルディ名声欧州全土広がっており、瞬く間イングランド住民から熱狂的に歓迎された。騒ぎ大きくなる一方で、とうとうニューカッスルからイギリス政府高官まで訪れ騒ぎになったガリバルディ高官達の晩餐会への誘い丁重に断ったが、地元住民たちが金を出し合って記念言葉刻まれた剣を作ると、喜んで受け取ったという。 1854年後半頃にイタリア帰国したが、すぐには軍事行動を起こさなかった。一族資産投じてカプレーラ島半分購入して農業営みながら機会伺った1856年ダニエーレ・マニンヴェネツィア国民党加盟する1859年第二次イタリア独立戦争勃発したガリバルディマッツィーニ共和的な理想主義決別してサヴォイア王家率いるサルデーニャ・ピエモンテ軍に加わった陸軍少将として“アルプス猟兵隊”という義勇師団組織ヴァレーゼコモその他の地でオーストリア軍勝利したオーストリアサルデーニャロンバルディア明け渡しイタリア統一大きな一歩踏み出した。 しかしこの戦争側面1つは、彼を大変落胆させる結果となる。彼の故郷であるニースサヴォワと共にプロンビエールの密約基づいてフランス参戦見返りとして割譲されたからである。1860年4月に、密約進めた親仏派カヴールガリバルディ強く批判し以降彼の合理主義政策一種嫌悪感すら覚えようになった

※この「2度目の放浪と帰国」の解説は、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の解説の一部です。
「2度目の放浪と帰国」を含む「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事については、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の概要を参照ください。

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