大改革と革命の胎動とは? わかりやすく解説

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大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)」の解説

詳細は「アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)」、「露土戦争 (1877年-1878年)」、および「ナロードニキ」を参照 1855年3月2日アレクサンドル2世在位1855年 - 1881年)が即位したクリミア戦争戦況好転せず、セヴァストポリ1年近く包囲戦の末、8月陥落したロシア継戦能力尽き、翌1856年3月黒海艦隊保有禁止、ボスポラス・ダーダネルス海峡軍艦通行禁止ベッサラビア南部割譲といった屈辱的な内容パリ条約締結され戦争終わったナポレオン打倒主要な役割果たし以来ロシアヨーロッパ最強陸軍大国と見なされてきたが、近代化され英仏軍に敗れたことにより、その自尊心大きな打撃を受けることになった貴族領主人格的に隷属させられ農奴全農民の半数近い約2300万人存在しており、敗戦契機諸悪の根源と見なされた農奴制への非難強まった。後に「解放皇帝」と呼ばれるアレクサンドル2世本人保守的な考え人物であったが、改革必要に迫られ進歩的官僚登用して改革取り組むことになったアレクサンドル2世戦争終結詔勅改革意向明らかにし、さらに貴族団の前で懸案であった農奴解放についての演説行い「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言する1861年2月19日3月5日)に農奴解放令公布され農奴には人格的な自由と土地与えられた。しかしながら土地無償分与された訳ではなく政府領主に対して寛大な価格買戻金を支払うことになり、解放され農奴国家に対してこの負債支払わねばならなかった。また、土地の1/3程度領主保留地となり、多く場合、元農奴耕作地狭められた上にやせた土地割り当てられた。大概分与地は農村共同体ミール)によって集団的に所有され農民への割り当て様々な財産監督が行われ、元農奴領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった農奴制廃止されたものの、解放から暫くの間農民の生活は一層苦しくなり、農奴解放令内容に不満を持った農民暴動各地引き起こされる結果となった農奴解放によって都市労働者プロレタリアート)が供給され工業活性化しブルジョワジー階級増加してロシア資本主義経済加速された。だが、革命家たちは、解放され農奴たちは単に産業革命始めるための賃金奴隷(en:wage slavery)にされ、ブルジョワジー領主にとって代わっただけであると信じたアレクサンドル2世思惑異なり農奴解放令によって逆に社会矛盾激化することになり、革命緊張緩和されなかった。 アレクサンドル2世ヨーロッパ・ロシア34県とこれに属する郡に代議制議会を持つゼムストヴォ地方自治機関)を設置する地方行政改革行い、さらに司法改革教育改革そして軍制改革をも実施しており、農奴解放含めたこれら一連の改革は「大改革」(Великая реформа)と呼ばれるポーランドでも農奴制問題になっており、農奴解放令出され1861年急進派デモ隊総督府の兵が衝突する事件起き、これを契機緊張高まり1863年1月武装反乱起こった1月蜂起)。反乱軍ロシア革命派との連帯期待したが、ロシア人支持得られず、1864年4月鎮圧されポーランドロシア直接統治とされた。反乱鎮圧後にポーランドでも農奴解放実施された。ロシア違って土地無償分与され、政府ポーランドロシア化推進したが、逆にポーランド人民族意識高め結果となった。 このポーランド反乱1866年起こった皇帝暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件英語版))の頃から、アレクサンドル2世反動政策転じた対外政策では、イギリスそしてフランス対抗すべくプロイセン1871年ドイツ帝国)と接近し1871年ドイツ宰相ビスマルクとの連携により、クリミア戦争結果課せられた黒海における軍備制限撤廃成功した1873年にはドイツオーストリアとの三帝同盟成立するロシア1867年ロシア領アラスカアメリカ合衆国売却したが(アラスカ購入)、その一方で中央アジアコーカンド・ハン国1868年)、ブハラ・アミール国1868年)そしてヒヴァ・ハン国1873年)を保護国化しており、1879年から1881年にかけてトルクメニスタン征服した東アジアでは1858年に清とアイグン条約結んでアムール川左岸領有確定させ、1860年には北京条約沿海州ロシア領とした。 1870年代ロシアオスマン帝国は再び衝突した16世紀以来オスマン帝国支配されてきたセルビア人ブルガリア人はじめとする様々なスラヴ系諸民族1875年から1877年次々と反乱起こしバルカン危機激化していた。この時期ロシアではスラヴ派流れを汲む汎スラヴ主義盛んになっており、バルカン半島スラヴ民族解放主張された。1874年ロシアオスマン帝国との戦争踏み切った露土戦争1877年 - 1878年)。1年程の戦闘ロシア軍イスタンブール迫り1878年3月オスマン帝国サン・ステファノ条約受諾余儀なくされた。この条約によってセルビアモンテネグロそしてルーマニア独立承認され、さらにバルカン半島南西部広がる大ブルガリア建国された。 だが、サン・ステファノ条約に対して危機感持ったイギリス開戦をも辞さぬ構え示したため、ロシア妥協余儀なくされた。ドイツ宰相ビスマルクの提唱により開催されベルリン会議において結ばれたベルリン条約で、列強国によるバルカン半島分割国境線改定が行われ、オーストリアボスニア・ヘルツェゴビナ占領イギリスキプロス獲得しており、ロシアベッサラビア南部回復アルメニア一部獲得したが、オスマン帝国内の自治公国としてのより小さなブルガリア建国同意させられた。この結果ロシア人にとって不満なものであり、バルカン問題利害対立するオーストリアそして会議主催したドイツ対す遺恨残されることになったまた、三帝同盟事実上解消した。 この時代これまで貴族中心だったインテリゲンチャ世界変化生じ聖職者下級官吏商人など様々な階層知識人現れるようになった(ラズノチンツィ:雑階級人)。1860年代インテリゲンチャ特徴既存価値観権威否定するニヒリズムである。主な思想家には西欧のそれとは異なロシア独自の社会主義提唱したゲルツェンチェルヌイシェフスキー無政府主義主張してヨーロッパ革命運動活躍したバクーニンがいる。 やがて、専制政治打倒標榜する革命的な傾向がより強まりロシア農村共同体基盤とした資本主義経ない社会主義社会実現目指すナロードニキ人民主義者)が現れる。彼らは政府の弾圧を受けながら労働者への宣伝活動続け、そして、バクーニン影響受けた革命家たちが「人民の中へ」(ヴ・ナロード:в народ)を標語農民への宣伝活動広げた1874年は「狂った夏」と呼ばれ数千男女農村入り農民対す革命宣伝試みている。だが、農民は彼らを理解せず、この運動失敗終わり多数運動家逮捕される結果終わったこの後ナロードニキ一部は「土地と自由」を結成して運動継続するが、彼らの革命運動過激化し、官吏狙った暗殺事件が相次ぎ1879年にはアレクサンドル2世標的となった政府の弾圧により多数活動家逮捕され、またテロリズム路線の是非を巡って土地と自由」も「人民の意志」派と「土地総割替」派とに分裂した1881年2月には冬宮ダイナマイト仕掛けられる事件起き、そして、3月1日テロによる政治革命標榜する「人民の意志」派アレクサンドル2世対す爆弾テロ成功させた(アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年))。

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