大改装後
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「ウェストバージニア (戦艦)」の記事における「大改装後」の解説
改装により外観が大きく変化したウェストヴァージニア 1935年10月の撮影 1944年7月の撮影 ウェストバージニアは1943年(昭和18年)5月7日に真珠湾を出発し、自力でアメリカ本土西海岸にむかった。前後の籠マストは既に撤去されており、航海艦橋後方の頂部に通信用の短い仮設マストを装備している。ワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で、本格的な修理と大規模な近代化の改修工事を受けた。大改装により速力以外では米新鋭戦艦(ノースカロライナ級、サウスダコタ級)に匹敵する能力となり、特にバルジの装着と水平装甲の強化により防御力では米新鋭戦艦を部分的に上回っている。その代償として満載排水量は41,000トンを超え、艦幅の増大によりパナマ運河通過を諦めざるを得なくなり、機関部も改装しなかった事から最高速力が若干低下した。なおウェストバージニアに実施された改造は徹底的だったので、姉妹艦(コロラド、メリーランド)よりも高性能となった。1944年(昭和19年)7月に修理を終え、9月から太平洋艦隊に復帰した。 同年10月24日深夜から25日未明にかけて、スリガオ海峡で第7艦隊(司令長官キンケイド中将)と、栗田艦隊分遣隊(西村艦隊)との間で夜戦が繰り広げられた(レイテ沖海戦、スリガオ海峡夜戦)。ウェストバージニアはジェシー・B・オルデンドルフ中将が指揮する第77任務部隊において戦列部隊(第2群)に所属しており、西村祥治中将が率いる第一遊撃部隊第3部隊(通称“西村艦隊”または“西村部隊”)を迎え撃った(両軍戦闘序列)。西村艦隊は米軍水雷戦隊の襲撃で戦艦扶桑と駆逐艦3隻(満潮、山雲、朝雲)が沈没するか戦闘不能となる。スリガオ海峡をなおも北上したのは、3隻(戦艦山城、航空巡洋艦最上、駆逐艦時雨)だけだった。ウェストバージニア以下の戦列部隊は、西村艦隊残存3隻に集中攻撃を加えた。また真珠湾攻撃時に戦死したウェストバージニア艦長にちなむ駆逐艦ベニオン (USS Bennion,DD-662) も、山城に魚雷攻撃を行った。大改装組(ウェストバージニア、テネシー、カリフォルニア)は射撃用レーダーと射撃指揮装置を活用し、有効な砲撃を行ったとされる。第77任務部隊は山城を撃沈し、味方駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) を同士討ちで撃破したのみで、最上と時雨に逃げられた。 1945年(昭和20年)2月半ばまでレイテ湾周辺での哨戒、対空戦闘を実施した後に海域を離れ、ウェストバージニアは硫黄島の戦いと沖縄の戦いで上陸部隊支援のための艦砲射撃と対空警戒に従事した。沖縄戦ではスプルーアンス大将が率いる第5艦隊 (U.S. Fifth Fleet) に所属し、モートン・デヨ少将の第54任務部隊として行動する。沖縄地上戦開始後の4月1日、特攻機の突入で小破した。4月7日から8日にかけて沖縄西方海上へ展開し、菊水一号作戦で沖縄を目指す戦艦大和以下の水上特攻部隊の襲撃に備えた。しかし、大和らは第58任務部隊の空襲によって撃沈され、デヨ部隊は翌朝にその知らせを受け取った(坊ノ岬沖海戦)。4月16日、伊江島の戦いで艦砲射撃に従事。
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