1877年 - 1878年
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「筑波 (コルベット)」の記事における「1877年 - 1878年」の解説
西南戦争 1877年(明治10年)2月19日、筑波は当分東海鎮守府所轄の常備艦とされ、2月23日、横浜港を出港した。8月12日午後1時30分、筑波は九州から横浜港に帰港した8月13日、筑波は東海鎮守府所轄から兵学校所轄練習艦に変更された。9月10日、筑波に朝鮮への回航が命令されたが20日中止となり、高雄丸が代わりに回航となった。その後筑波は修理を行った。 遠洋航海 11月30日、筑波は遠洋航海でオーストラリア・シドニーまでの航海を命令され、1878年(明治11年)1月17日(午後3時)、筑波は横浜港を出港した。3月9日オーストラリア・ブリスベン着、3月19日同地発。3月25日同国シドニー着、4月27日同地発。6月13日午後0時35分、筑波は品川に帰着した。6月15日、筑波乗員に3週間の休暇が与えられた。 8月31日横須賀に回航した。12月30日横須賀発、羽田沖で1泊し31日品川湾に到着した。
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1877年-1878年
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「プリズレン連盟」の記事における「1877年-1878年」の解説
露土戦争終結後にサン・ステファノ条約が調印され、アルバニア人居住地域がブルガリア、モンテネグロ、セルビアの諸国に割り振られた。しかし、オーストリア=ハンガリー帝国および英国は、この条約批准を阻止した。アルバニア人指導者は、コソボのプリズレンに会しプリズレン連盟を結成し、連盟はアルバニアの民族自決を標榜した。ベルリンでの会議で、列強諸国はサン・ステファノ条約を覆し、アルバニア人地域を幾つかの州に分割した。プリズレン連盟は、ベルリン条約がアルバニア人に影響を及ぼすであろう前触れに応じて、組織的抵抗を開始した。
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