1876年の州知事選挙
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「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「1876年の州知事選挙」の解説
その後間もなくクー・クラックス・クランの襲撃が始まり、白人優位の社会を取り戻そうとして黒人や黒人同調者を脅し殺した。ある地域では、数年後に土地の指導者がその運動を抑え込んだ。1876年、特に黒人人口が白人よりも少ないピードモントの町では緊張関係が高まった。レッド・シャーツによる多くの示威行動があり、白人民主党は如何なる手段でも次の選挙に勝とうと決意した。自警団的な集団であるレッド・シャーツはサウスカロライナの流れを変え、この年こそが支配を奪還する時であり、黒人を脅すことで投票させないようにできると白人達に確信させた。暴力沙汰を理由に共和党の知事ダニエル・チェンバレンは治安を維持するためにワシントンD.C.からの支援を求めた。ユリシーズ・グラント大統領は秩序を回復し公正な選挙を行うために連邦軍を派遣した。 1874年にミシシッピ州の支配を取り戻した「ミシシッピ計画」をモデルとして、サウスカロライナのリディーマーは黒人を脅迫し、説伏し、支配した。大型拳銃やライフルで武装し、馬であらゆる共和党の集会に乗り入れ、発言の機会を要求した。レッド・シャーツが群衆の間を動き回った。各人が監視する黒人を選び、妨害するようならば射殺すると個人的に脅した。リディーマーは多くのライフル・クラブを組織化した。解体するようにという命令には従いながら、時には伝道協会とかダンスクラブとしてしかもライフルを持って再組織化した。民主党候補者への投票を拒む黒人活動家やスキャラワグに対しては厳しい経済的ボイコットを課した。人々は政治的見解の故に職を失った。リディーマーは敵を撃ち倒したがいつも法の中でのことだった。流血を呼ぶ紛争は数少なかった。ウェイド・ハンプトンは州内で40回以上の演説を行った。多くの黒人共和党員が彼の側について、赤シャツを着け白人と共に行進した。大半のスキャラワグは、民主党に鞍替えした者がそう呼ばれたように、「ヨルダン川を渡った」。 選挙の当日、両党によって採用されたあらゆる面からの脅しがあり、1877年の妥協で中心的な役割を演じたワシントンでもその結果が論じられた。どちらの党も勝利を宣言した。民主党が自分達の建物に移るまでの間、しばらくは州議会議事堂の議場で2つの異なる州議会が並んで仕事をした(議長は議長席を分け合ったが、それぞれの小槌をたたいた)。そこでは民主党が法案を通し続け州の仕事を遂行したが、共和党も全く同じようにした。共和党の州議会は汚染された選挙結果を棚上げし、チェンバレンを知事に再選した。1週間後、ウェイド・ハンプトンが民主党のために就任宣誓を行った。 最終的に合衆国大統領ラザフォード・ヘイズが、サミュエル・ティルデンと戦った大統領選挙での南部の支持に答える形でコロンビアから連邦軍を引き上げさせた。共和党政府は崩壊し、チェンバレンは北部に行き、ウェイド・ハンプトンとそのリディーマーが政権を取った。
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