1877年–1892年: コモ・ブラフでの発見
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「化石戦争」の記事における「1877年–1892年: コモ・ブラフでの発見」の解説
1877年、マーシュはコロラド州ゴールデンの教師、アーサー・レイクス(英語版)から1通の手紙を受け取った。手紙には、レイクスがモリソン市近郊の山で友人のH・C・ベックウィズ (H.C.Beckwith) とハイキングしていたところ、岩に埋まった巨大な骨を発見したことが記されていた。レイクスはさらに「見た所何か巨大なトカゲ類の動物の脊椎と上腕の骨のようだった」とも知らせた。マーシュからの返事を待つ間、レイクスはその「巨大な」骨を掘り起しマーシュのいるニューヘイブンに送った。マーシュからの返事は遅かったので、レイクスはコープにも化石を送った。 マーシュは手紙に「見つけたものは秘密にしておいてほしい」と書き、100ドルを添えて返信した。さらにレイクスが既にコープともやり取りをしていたことを知ると、レイクスの協力を確実なものとするため化石収集家ベンジャミン・マッジ(英語版)をモリソンに派遣した。結果、コープが発見した化石の解説論文を発表するよりも前の7月1日、マーシュがレイクスの発見の成果をアメリカン・ジャーナル・オブ・サイエンス(英語版)誌に掲載した。レイクスは「骨はマーシュに送ることになった」との手紙をコープに書いたが、コープにとってはこの上ない屈辱であった。 西部から2通目の手紙が届いた。今度はコープ宛の手紙であった。コロラド州キャニオンシティ近郊で植物を採取していた植物学者O・W・ルーカス (O.W. Lucas) が一揃いの化石を発見したという。ルーカスからサンプルを受け取ったコープはこれを大型の草食恐竜と結論づけ「これまで発見されたどの種よりも、レイクスが発見したものよりも大きい草食恐竜だ」と上機嫌にメモを残している。ルーカスの発見について耳にしたマーシュは、マッジに加えマーシュの元教え子サミュエル・ウィリストン(英語版)をキャニオンシティに派遣し自分の代わりに発掘場所の準備をしておくよう指示した。だがウィリストンの現場からの報告では、ルーカスが既に一番良い化石を見つけており、コープと手を切ってマーシュと組むことも断ったとのことであった。マーシュはウィリストンにモリソンに戻るよう指示したが、今度はモリソンでマーシュの小さな発掘坑が崩れ助手らが危うく命を落としかける事故が発生した。不運とトラブルで西部における化石供給源を失いかけていたマーシュのもとに、3通目の手紙が届いた。 レイクスが化石を発見したころ、ワイオミング州の人里離れた地域では大陸横断鉄道が建設されていた。この建設に携わっていたユニオン・パシフィック鉄道社の作業員、ハーロウとエドワーズと名乗る2人の男(彼らの本当の名はカーリンとリード)からマーシュの下に1通の手紙が届いた。2人はコモ・ブラフ(英語版)で多数の化石を発見し、このあたりには「こういうものを探しているやつら」が他にもいると警告してきた。マーシュはそれがコープだと思った。モリソン坑崩落に遭いぐったり疲れてカンザスに戻ってきたばかりのウィリストンに、マーシュはすぐさまコモ・ブラフに行くよう指示した。マーシュの元教え子ウィリストンはコモ・ブラフに行き、化石が大量にあること、化石を探し回っているのはコープの手下であることを確認しマーシュに伝えた。レイクスのときに犯した過ちを繰り返さないよう用心したマーシュは、すぐさまこの2人の新たな化石ハンターに金を送り、もっと化石を送るよう求めた。ウィリストンはカーリンとリード(この2人は偽名を使っていたためマーシュの小切手を現金化できなかった)と仮契約を結ぼうとしたが、カーリンはニューヘイブンに向かいマーシュと直接交渉すると決めた。カーリンと会ったマーシュは、月々決まった額の報酬を支払い、重要な化石を見つけた際にはボーナスを払うとする契約を提案した。なお必要の際は直属の「現場監督」を派遣して発掘作業を管理させる権利をマーシュが保持し、2人にはコープの部下を現場に近づかせないようにと伝えた。カーリンはマーシュと直接会って交渉したが、結局良い条件は引き出せなかった。マーシュは自分で決めた通りの条件で2人を使えるようになったが、カーリンとリードはマーシュによって条件を無理やり飲ませられたと感じていたため、2人の心には確執と恨みの気持ちが生まれていた。コモ・ブラフへの投資はすぐに大きな見返りがあった。マーシュ直属の作業員たちは冬期東部へ戻るのだが、リードは1877年中ずっと発掘を続け貨車何両分もの化石を列車でマーシュに送った。アメリカン・ジャーナル・オブ・サイエンス誌1877年12月号には、マーシュによって命名、記載されたステゴサウルス、アロサウルス、アパトサウルスなどの恐竜についての論文が掲載された。 マーシュはコモ・ブラフの豊かな化石層にライバルたちが近付かないよう対策を講じていたが、化石発見の噂は瞬く間にひろがった。噂の広まりにはカーリンとリードも一部加担している。2人は1878年4月のララミー・デイリー・センチネル (Laramie Daily Sentinel) 誌に情報をリークしたが、このときマーシュが化石収集に費やした額が、おそらくは化石の値段と需要を釣り上げるため、誇張されて掲載された。情報漏れを止めようとしていたマーシュは、ウィリストンから、カーリンとリードの下に表向きはコープの所で働いているヘーンズ (Haines)という男が出入りしているとの報告を得た。コモ・ブラフでの化石発見を知ったコープは、マーシュの鼻先でこっそりと化石を盗む「化石泥棒」をそのエリアに送り込んでいたのである。1878年の冬、支払いを散発的にしかしないマーシュに対するカーリンの不満が頂点に達し、カーリンは寝返ってコープのために働きはじめた。 コープとマーシュは、毎年夏の間はもてる資産を化石発掘調査の遠征費のために費やし、冬は発見物を論文で発表するために過ごした。貨物列車やラバが引く荷車に乗った化石ハンターたちの小部隊は、ついには化石を文字通りトン単位で東部に送るようになっていった 。こうした発掘は1877年から1892年までの15年間続いた。コープとマーシュの作業員たちは両者とも互いに悪天候や相手側からの破壊・妨害工作に苦しめられていた。あるときマーシュの作業員リードはカーリンによってコモ駅から締め出され、化石を貨車から降ろさざるを得なくなり、身を切るような寒さの中、駅のプラットフォームでサンプルをラバ荷車用に梱包し直すはめになったこともある。コープがカーリンにコモ・ブラフにコープ専用の採石場をつくるするよう指示した際、一方のマーシュはリードを送って旧友カーリンをスパイさせた。また、リードの管理する第4発掘場で化石が尽きたとき、マーシュはリードに他の採石場からもってきた化石のかけらをどけるよう指示した。その後リードは第4発掘場に残っていた化石を破壊したが、これは残った化石をコープに渡さないためであった。何者かがリードの発掘場に進入しているのを憂慮したマーシュは、レイクスをコモに送り発掘を手伝わせた、そして1879年6月にはマーシュ自身もコモ・ブラフを訪れた。コープも同じように採掘場を8月に訪れた。マーシュの作業員たちは新たな採掘場を開拓してさらに多くの化石を発見していたけれども、レイクスとリードの関係はぎくしゃくしており、8月には各々が仕事を辞めたいと言い出した。マーシュは2人を採石場の反対の端に送りなだめようとした だがある化石採掘場が猛吹雪で閉鎖せざるを得なくなったとき、レイクスは辞表を提出し、1880年に教職に戻った。レイクスが去った後もマーシュの男たちの間の緊張が和らぐことはなかった。レイクスの代わりにきたケネディという元鉄道員は、自分はリードに報告する必要はないと考え、この2人の反目が原因で他の作業員が辞めていった。マーシュはケネディとリードを離そうとし、現場の平穏を守るためウィリストンの兄弟フランクをコモに送った。だがフランク・ウィリストンは結局マーシュとの雇用関係を終了させ、(コープの下で働いていた)カーリンと共に独立した。一方のコープも、コモにおける採掘は陰りをみせはじめ、独立したカーリンの代わりにきた作業員もすぐに皆辞めてしまった。 1880年代も時が経つにつれて、コープとマーシュの作業員たちは、ライバル陣営だけでなく化石に興味を示す第三者との厄介な競争に直面していった。ハーバード大学の教授アレキザンダー・アガシーは化石を求めて自身の代理人を西部に派遣し、カーリンとフランク・ウィリストンは化石を入札にかけて高値で売る会社を設立したのである。かたやリードは化石堀りをやめて1884年に羊の放牧をはじめ、リードが去った後コモ・ブラフにあるマーシュの採掘場では化石採掘はほとんど行われなくなった。だがこうしたマイナス要因がありながらも、マーシュが手掛ける発掘現場はこの時点ではコープよりも多かった。コープは、1880年代はじめには家1軒には収まりきらないほどの化石を保有していたが、このとき「化石戦争」で遅れをとっていた。 コープとマーシュの古生物学上の発見の裏には、スパイ行為、作業員や化石の奪い合い、賄賂など扇情的な一面がある。2人は採掘場所を守ろうとするあまり、ちょっと壊れた化石ですらライバルの手に渡らないよう破壊したり発掘場を土砂で埋めるといったこともした。1879年にコモの採石場で現場調査を行った際、マーシュは発見した化石を調べた上で、そのうちいくつかには破壊のための印をつけている。ライバルチームが互いに石を投げ合ってけんかすることもあったという。
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