公孫賈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 22:56 UTC 版)
公孫賈(こうそんか、生没年不詳)は中国戦国時代の秦国、孝公の時期の人で、孝公の太子駟の師傅(お守り役)であった。
紀元前358年に、商鞅の変法の改革令が発布されてから1年たった。秦の民で都へ上ってきて、新法が民衆に不便をもたらしたと訴えるものが多かった。こうした状況下で、太子も法を破った。商鞅は「法が守られないのは、上流階級のものが法を破るためである」として太子を罰しようとしたが、太子は君主の後嗣であり、処罰を加えることができなかった。そこで、太子の傅である公子虔処罰し、同じく師である公孫賈に顔に入れ墨を入れる黥刑を言い渡した[1]。
すると、その翌日から、秦の人々は法をよく守るようになった。それから10年、道に落とし物があっても私しようとする者はなく、山中の盗賊もいなくなった。民の暮らしも良くなった[1]。
脚注
参考文献
- 司馬遷『史記 商君列伝(第8)』平凡社〈中国古典文学大系 第11巻〉、1969年 。
- 《中国历史大辞典·上卷》 上海辞书出版社 2000
関連項目
- 商鞅の変法
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