第二次北属期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 23:37 UTC 版)
「en:Second Chinese domination of Vietnam」も参照 漢の支配下で中央から交州に派遣された刺史、太守の苛斂誅求に対してベトナム人は反乱を起こし、軍事拠点や皇帝の私有地を攻撃した。 159年と161年に天竺国の使者が日南郡を訪問、166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使いを名乗る人物が南海の産物を携えて日南に来航した。漢の政治勢力の拡大、南海の特産物の需要の高まりに伴い、ベトナム中部の在地勢力の独立の意識も強くなっていった。192年頃、日南で区連が王を称して自立し、林邑国(中国語版)(チャンパ王国)が建国される。漢代には最大でダナンまで支配が広がっていた可能性もあるが、林邑の建国後、中国の支配領域は北に後退していった。 184年にベトナムの民衆が刺史の周敞を殺害し、朝廷に周敞の暴政を訴え出る事件が起きる。中央から新たな刺史として派遣された賈琮は減税を実施し、賈琮の次の刺史には交州出身者である李進が任命される。 紅河デルタ、広東では在地中国人の独立した政権を求める機運が高まり、184年頃に後漢から交趾太守に任じられた士燮は、北ベトナムに事実上独立した政権を樹立する。士燮は南海の特産品を独占し、真珠、ヒスイ、ガラス玉、タイマイなどを呉に献上した。226年に士燮が没した後、呉は交趾を支配下に収める。呉は士燮の支配地を広州と交州に二分し、中国とベトナム、東南アジアと東アジアの行政的な境界が確立された。士燮の死後に交州は衰退、戸数は減少し、交州の中心地は𨏩𨻻(英語版)(ルイラウ)から龍編に移った。 248年、九真で趙氏貞(チェウ・ティ・チン、趙嫗)が呉に対して反乱を起こし、反乱にはベトナム人と漢人の両方が参加していたが、数か月で鎮圧される。趙氏貞の反乱は、貉将によるベトナム土着の封建支配者層による最後の反乱となった。 541年、南朝梁が任命した刺史蕭諮の圧政に対して李賁(リ・ボン)が反乱を起こし、蕭諮を広州に追放する。李賁は北ベトナムの混乱に乗じた林邑の侵攻を撃退し、544年に龍編を都に定めて皇帝を称した。梁から楊瞟、陳霸先らが討伐軍として派遣され、李賁はゲリラ戦術で抵抗するが、548年に李賁は没し、その配下の将軍が後継者の地位を巡って互いに争った。趙光復(中国語版)(チェウ・クアン・フク)、李仏子(中国語版)(リ・ファト・トゥー)らが王を名乗って南朝陳、隋に抵抗するが、603年に隋によって反乱は鎮圧される。
※この「第二次北属期」の解説は、「北属期」の解説の一部です。
「第二次北属期」を含む「北属期」の記事については、「北属期」の概要を参照ください。
- 第二次北属期のページへのリンク