ディーン・アチソンとは? わかりやすく解説

ディーン・アチソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 07:40 UTC 版)

ディーン・アチソン
Dean Acheson
生年月日 (1893-04-11) 1893年4月11日
出生地 アメリカ合衆国 コネチカット州ミドルタウン
没年月日 (1971-10-12) 1971年10月12日(78歳没)
死没地 アメリカ合衆国 メリーランド州サンディスプリング
出身校 イェール大学
ハーバード大学
所属政党 民主党
称号 文学士(イェール大学
法学士(ハーバード大学
配偶者 アリス・スタンリー(1917年5月‐)
子女 3人
在任期間 1949年1月21日 - 1953年1月20日
大統領 ハリー・S・トルーマン
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ディーン・グッダーハム・アチソン[注釈 1](英語:Dean Gooderham Acheson1893年4月11日 - 1971年10月12日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士。国務次官、国務次官補、国務長官を歴任した。

冷戦初期のアメリカの外交政策を形作り、「トルーマンよりもトルーマン・ドクトリンに、マーシャルよりもマーシャル・プランに対して責任を負った」と評される。

生涯

1893年4月11日にコネチカット州ミドルタウンで誕生した。父はイギリス生まれの牧師でアメリカに移住し、母はカナダ人であった。1912年イェール大学に入学し、在学中は有名な秘密結社のスクロール・アンド・キー[注釈 2]に入会した。1915年に大学を卒業後、ハーバード大学ロースクールに進学してフェリックス・フランクフルター教授に師事し、フランクフルターによってワシントンでの仕事を紹介される。1918年に大学院を修了後、1919年から1921年までルイス・ブランダイス最高裁判所判事の秘書を務める。

民主党の支持者としてワシントンD.C.の法律事務所で働いていたが、1933年5月にフランクリン・ルーズベルト政権で財務次官に任命された。だが11月には平価切り下げに反対して同職を辞任し、弁護士業に戻った。しかし1941年2月には経済担当国務次官補に再度任命され1945年8月まで同職を務め、1944年7月に開催された戦後の国際金融秩序を構想するブレトン・ウッズ会議に出席している。日本の降伏が間近な頃、天皇制は時代錯誤の危険な封建的制度であるとアチソン国務次官補は論じ、天皇制存続を認めたジョセフ・グルー国務次官と議論している[1]

1945年8月にトルーマン大統領によって国務次官に任命され、続く2年間に渡ってアチソンはトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たした。アチソンは革命の危険にある国々での共産主義の普及を停止させる最良の方法は、それらの国々の進歩的勢力と連携することであると主張した。

国務長官

1949年1月にジョージ・マーシャルの後任として、国務長官に就任した。アチソンは国務長官として共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成に尽力した。極東地域についても、1950年1月に日本・沖縄フィリピンアリューシャン列島に対する軍事侵略にアメリカは断固として反撃するとした「不後退防衛線(アチソン・ライン)」演説を示した[2][3]。ただし、この演説は台湾朝鮮半島インドシナ半島など除外地域については明確な介入についての意思表示を行わなかったことから、朝鮮戦争の誘因になったとされている[4][3]。同年1月にはアメリカは台湾不干渉声明も発表しており[4]台湾海峡を防衛するとして第7艦隊を派遣したのは朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日だった[5]

アチソンの政策は受動的な封じ込めであり、共産主義陣営に対して積極的に攻勢をとらなかったとして、ジョセフ・マッカーシーをはじめとする共和党の急進的メンバーによって攻撃されることとなった。アチソンは封じ込めと宥和を同等視するアメリカ人達から嘲笑の的となった。1950年12月15日に下院の共和党は満場一致で彼の罷免を可決している。

国務省職員のアルジャー・ヒス共産党員ソ連スパイであると糾弾されると、ヒスを子供の頃から知っていたアチソンはヒスの無罪を確信し、密かに支援を与えていた。ヒスの偽証罪が確定した際にも彼を見捨てることは無いとコメントし、ジョセフ・マッカーシー上院議員によるマッカーシズムの燃え上がりに貢献してしまった。

更には朝鮮戦争におけるダグラス・マッカーサー将軍とハリー・S・トルーマン大統領の論争で大統領の側に付き、強硬派を狼狽させた。アチソンとトルーマンは戦争を朝鮮半島内に限定しようとしたが、マッカーサーは中華人民共和国への戦線拡大を要求し、大統領に解任英語版された。

1953年1月に国務長官を退任し、1952年アメリカ合衆国大統領選挙に幻滅して弁護士業に戻った。その公的経歴は終了したが、その影響力は引き続いて保持された。アチソンの法律事務所はラファイエット公園を横切ったホワイトハウスに効果的に影響力を与えられる場所に置かれ、アチソンはこの事務所で多くの仕事をこなした。

その後

アチソンはケネディ、ジョンソン、ニクソン政権への非公式アドバイザーに就任し、1962年10月のキューバ危機の発生時には助言を求めるジョン・F・ケネディ大統領によってExComに招かれた。1964年には大統領自由勲章を受章した。また、ベトナム戦争が激化した折にはリンドン・B・ジョンソン大統領に北ベトナムとの和平交渉を助言した。

1970年に国務省時代を回想したプレゼント・アット・ザ・クリエーション:マイ・イヤーズ・イン・ザ・ステート・デパートメント(Present at the Creation: My Years in the State Department)でピューリツァー賞を受賞した。1971年10月12日にメリーランド州サンディ・スプリングにて、78歳で死去した。トルーマン大統領図書館には、公人としてのアチソンの遺した文書類が保管されている。なお目録はホームページから確認できる。

家族

1917年5月にアリス・キャロライン・スタンリーと結婚し、3人の子女が誕生した。

著書

  • A Democrat looks at His Party. (Harper, 1955).
  • A Citizen looks at Congress. (H. Hamilton, 1957).
  • Power and Diplomacy. (Harvard University Press, 1958).
  • Present at the Creation :My Years in the State Department.(Norton, 1969).
『アチソン回顧録(1・2)』(吉沢清次郎訳, 恒文社, 1979年)
  • Fragments of My Fleece. (Norton, 1971).
  • This vast external Realm.(Norton, 1973).
  • The Pattern of Responsibility edited by McGeorge Bundy. (A.M. Kelley, 1972).

脚注

注釈

  1. ^ 第二次世界大戦後に日本で活動した外交官ジョージ・アチソンとは姓のスペルが異なり(ジョージはAtcheson)、血縁関係は無い。
  2. ^ スクロール・アンド・キー(Scroll and Key 巻物と鍵)は1841年に設立されたイェール大学の学生友愛会。

出典

  1. ^ ハワード・ショーンバーガー『占領1945-1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』時事通信社(1994年)46ページ
  2. ^ アチソン演説(アチソンえんぜつ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. DIGITALIO. 2025年8月2日閲覧。
  3. ^ a b 産経新聞 (2017年4月8日). “【アメリカを読む】「同盟国」と「パートナー」ティラーソン米国務長官の日韓の使い分けが引き起こした韓国「見捨てられ」の恐怖心(4/4ページ)”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年8月2日閲覧。
  4. ^ a b 神谷不二. “朝鮮戦争と私-研究を回顧して-”. 防衛研究所. pp. 15-16. 2025年8月2日閲覧。 “さらに大きかったのは、中華人民共和国の成立であります。この共産主義国家が誕生することに対して、アメリカは何の干渉も行いませんでした。このことは、金日成だけではなく、スターリンや毛沢東にも、北が侵攻してもアメリカは介入してこないのではないかとの印象を与えました。それを裏付けるかのように、1950 年1月トルーマン大統領は記者会見で、中国の内紛にコミットせず、台湾にも軍事援助を与えないと明言、1 週間後アチソン国務長官も、防衛ラインとして、台湾、韓国に言及しませんでした。 こうした一連の動きが、金日成に誤解を与えたのです。 (中略) 1950 年3月末から4月末にかけて、金日成はモスクワに滞在し、南侵を認めてほしいとスターリンに要求し続けています。そこでスターリンは、事前に充分準備を整えること、直接的な援助を中国から受けることという二つの条件をつけてこれを認めました。 (中略) こうしてスターリンの思惑に沿った形で、南侵が開始されたのです。”
  5. ^ 北朝鮮軍の韓国侵攻…その裏にあった中国共産党の「誤算」”. Web Voice. 2025年8月2日閲覧。 “国連安保理事会は6月27日、北朝鮮を侵略者として非難し軍事行動を停止するよう求める決議と、北朝鮮への武力行使を認める決議を矢継ぎ早に可決し、7月7日にはアメリカ軍司令官の下での国連軍(正式には「国連派遣軍」。米軍を中心に22カ国が参加した)編成を決定した。 同時に台湾に関してもトルーマン政権は不介入方針を撤回して、六月二十七日、台湾海峡に第七艦隊を出動させた。朝鮮戦争に気を取られて、台湾を取られないよう、あらかじめ手を打ったのだ。”

関連項目

外部リンク

公職
先代
ジョーゼフ・グルー
アメリカ合衆国国務次官
1945年8月16日 - 1947年6月30日
次代
ロバート・A・ラヴェット
先代
ジョージ・C・マーシャル
アメリカ合衆国国務長官
第51代:1949年1月21日 - 1953年1月20日
次代
ジョン・フォスター・ダレス




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