中ソ対立と日中共産党の関係
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「日中共産党の関係」の記事における「中ソ対立と日中共産党の関係」の解説
再統一後、1958年(昭和33年)の第7回党大会までには宮本の党指導権が確立したが、その後も1966年(昭和41年)までは中国共産党から影響を受ける関係は続いた。 1953年のスターリン死去後に開始されたソ連共産党のフルシチョフ指導部の路線の評価に関して、ソビエト連邦と中華人民共和国の間に深刻な対立が発生した。とりわけ1961年にソ連共産党第22回党大会が中国共産党寄りの態度をとったアルバニアを「スターリン主義」と批判し、中国共産党の周恩来がそれに反論したことで中ソ対立が一気に激化した。 中ソ両共産党は世界各国の共産党に対してどちらの側に付くのか明らかにするよう迫った。日本共産党は判断に悩みしばらく沈黙を続けたが、党内の中国派から突き上げもあって、1963年(昭和38年)の第5回中央委員会総会でこの問題を討議することになった。ソ連支持、中国支持、不介入、三様の意見が出たが、結局宮本が「中国寄りの中立」で意見をまとめた。 同年7月にソ連と米英が部分的核実験禁止条約を締結したが、中国共産党はこれを三国が核兵器を独占し中国の核開発を阻止しようとするものと見て強く反発した。この対立が日本に持ち込まれたのが同年8月の第9回原水爆禁止世界大会だった。大会では中国共産党代表朱子奇がソ連共産党代表ジューコフに扇子を叩きつけるほど激しい対立が起きた。社会党・総評系が部分的核実験禁止条約に賛成したのに対し、日本共産党は中国共産党寄りの立場から反対した。原水禁はこの時より社会党系と共産党系に分裂した。 日本共産党の親中反ソ傾向が強まったことに気づいたソ連共産党は1964年1月に書記局のオルグ3人を日本に送り込み、日本共産党を内部から切り崩そうと計った。これに対して日本共産党は2月に袴田里見を団長とする代表団をモスクワに送って談判を行ったが、けんか別れに終わった。その帰りの3月に北京に立ち寄ると中国共産党から「反修闘争の英雄」として大歓迎を受けた。こういうことがあって日本共産党の中国共産党寄りの態度は次第に決定的となってくる。 1964年(昭和39年)5月、来日したソ連のミコヤン第一副首相が傍聴席から見守る衆議院本会議において、ソ連派の志賀義雄は日本共産党の方針に反対して部分的核実験停止条約の批准に白票(賛成票)を投じた。参議院でも鈴木市蔵が賛成票を投じた。この急を聞いて急遽中国から帰国した宮本が臨席する5月21日の第8回中央委員会総会において二人は党から除名された。さらに9月25日には同派の神山茂夫と中野重治も除名され、ソ連派は一掃された。そのため11月の第9回党大会の段階では日本共産党の中国共産党寄りの立場はいよいよ鮮明になった。
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