ソ連との関わり・党再建活動・入獄
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1920年に日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)同年ソビエト連邦を訪問、イルクーツクで開かれた極東諸民族大会に出席した。1922年(大正11年)に帰国後、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加し、執行委員に選出される。翌1923年(大正12年)に一斉検挙で逮捕され、第一次共産党は解党を強いられるが、コミンテルンによって党再建の責任者に任命される。1926年(大正15年)2月にモスクワで開かれたコミンテルン会議に出席。1927年(昭和2年)に豊多摩刑務所で受刑した後、再びソ連に渡り、27年テーゼを策定した。 1928年(昭和3年)の第1回普通選挙に労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。 徳田は国内の刑務所を転々としたが、極寒の網走刑務所では神経痛を患い、右腕に障害を残したと『獄中十八年』で語っている。第二次世界大戦終戦時には府中刑務所内の東京予防拘禁所に志賀義雄ら共産党員とともに拘禁されていた。拘禁所では「おやじさん」の尊称で呼ばれていた。
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