ソ連における影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)
「ウラジーミル・レーニン」の記事における「ソ連における影響」の解説
ソビエト連邦において、レーニンへの個人崇拝は存命時からすでに始まっていたが、本格的にそれが確立されたのは死後においてであった。歴史家のニナ・トゥマーキンによれば、それはアメリカにおけるジョージ・ワシントンの個人崇拝以来、「最も手の込んだ革命指導者の個人崇拝」であり、 しばしば「宗教じみた」性質が指摘されている。レーニンの胸像や銅像が国中のほぼすべての村に建てられ、郵便切手やポスター、『プラウダ』と『イズベスチヤ』の1面などはレーニンの顔で飾られた。レーニンが住んだ、もしくは滞在した場所は彼の記念館に姿を変え、多くの図書館・通り・農場・博物館・町・地域などがレーニンに因んだ名前に改名された。ペトログラードは1924年に「レニングラード」と改名され、出生地であるシンビルスクは「ウリヤノフスク」に改められた。また、ソビエト連邦における最高の勲章としてレーニン勲章が設立された。これらすべてはレーニン自身の望みに反しており、未亡人のクルプスカヤによって公然と批判された。 多くの伝記作家が、レーニンの著作はソビエト連邦において聖書のような扱われ方をしていたと述べており、リチャード・パイプスは「彼(レーニン)の意見はすべて、ある政策や他の政策を正当化するために引用され、福音書のような扱いを受けていた」と指摘している。レーニンの死後、スターリンは党中央委員会の決定として、あらゆるレーニンの著述(手紙や私的な性質のものを含む)を収集し、マルクス・エンゲルス・レーニン研究所内の秘密書物庫に収蔵するよう命じた。クラクフのレーニンの蔵書のように、国外に存在する資料も、研究所の書物庫に保管するため(多くの場合多額の費用で)収集された。ソ連時代、レーニンの書物庫は厳格に管理されており、アクセスできる者はごく一部に限られていた。レーニンの著述のうち、スターリンにとって有益なものはすべて出版されたが、それ以外のものは非公表のままにされた。スターリン体制下、レーニンは盛んにスターリンの親友として描写され、 ソビエトの次期指導者がスターリンとなることを支持していたと主張された。他方、レーニンが非ロシア系の血を引いていた事実、および貴族の地位を有していた事実は隠蔽され、特にレーニンがユダヤ系の血を引いていたことは1980年代まで公表されなかったが、その理由はソ連内に存在した反ユダヤ主義であるとも、それがスターリンによるロシア化政策の妨げとなるためとも、国際的な反ユダヤ主義者が持つ反ソ感情を激化させないようにするためとも指摘されている。レーニンがユダヤ系の血を引くことが明らかにされると、この事実はロシアの極右勢力によって繰り返し強調され、レーニンが伝統的ロシア社会の根絶を願ったことはユダヤ系の遺伝子によって説明できると彼らは主張した。 スターリンの死後、ソ連の指導者となったニキータ・フルシチョフによって非スターリン化のプロセスが開始されたが、フルシチョフはこのプロセスを正当化するため、レーニンの著述(スターリンについてのものを含む)を引用した。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフが「グラスノスチ」および「ペレストロイカ」の政策を導入した際にも、ゴルバチョフは自らの政策を「レーニンの原理」への回帰と表現した。1991年末のソ連解体の最中、ロシア大統領ボリス・エリツィンは、レーニンの書物庫を共産党管理下から解放することを命じ、その結果6000点以上のレーニンによる著述が非公表のままにされていたことが発覚した。それらの文書は機密指定から外され、 学術的研究対象として利用可能になった 。一方で、エリツィンはレーニン廟を撤去しなかった。エリツィンは、撤去を実行するにはレーニンはあまりにも一般大衆から人気と尊敬を集めていると認識していた。レーニンは死後、ソ連において常に極めて高く評価され、死後に評価を落としたスターリンと比較して遥かに長期間その名声を保っていた。 2012年、ロシア自由民主党の議員によってロシアからレーニンのモニュメントをすべて撤去する提案が出されたが、この提案はロシア連邦共産党からの猛反対に遭った。同年には、モンゴルの首都ウランバートルに残っていた最後のレーニンの銅像が撤去され、その際に同市の市長はレーニンを「殺人者」と表現した。2012年12月、ロシア大統領のウラジミール・プーチンはレーニン廟を聖遺物になぞらえて保存を主張した。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた。 ウクライナでは、2013年 - 2014年にかけてのユーロマイダン運動の期間中、デモ参加者によって各地のレーニン像が破壊された。2015年4月、ウクライナ政府は脱共産化法に基づき、レーニン像を含むすべての共産主義的モニュメントの撤去を命じた。
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