ソ連における宇宙開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:54 UTC 版)
「ユーリイ・ガガーリン」の記事における「ソ連における宇宙開発」の解説
1959年、ソビエト連邦の宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、翌1960年3月にはソビエト全土からガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日にはボストーク宇宙船の開発者であるセルゲイ・コロリョフが候補生を招いて宇宙船を見せたが、このときガガーリンが開発陣や同僚に与えた印象は強いもので、有力候補の一人と見なされるようになった。 1961年4月の打ち上げに向けて飛行士の選考は進んでおり、1960年末には、候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。このときの選考では、身長の低さが重要な要因となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。飛行予定まで1ヶ月となった3月初めには、パイロットの候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかに絞られた。二人とも訓練結果が優れており、既に1960年末の時点で候補生の間ではどちらかが飛行士に選ばれることは確実とみられていた。 4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決定された。この決定は政府の上層部によって行われ、翌4月9日に両名に伝達された。なぜガガーリンが選ばれたかについてはいくつかの説があるが、ガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な人好きのする性格だったことや、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちなどが有力な要因とされている。選考に漏れたチトフは、同年8月にボストーク2号でガガーリンに次ぐ史上二番目の(軌道宇宙飛行を行なった)宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦して大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。
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