ソ連との交流
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「川村かおりのオールナイトニッポン」の記事における「ソ連との交流」の解説
番組を通じてソ連との交流も行われ、ソ連大使館(現・ロシア大使館)においてバレーボールとサッカーの大会(1990年4月12日実施、同年4月14日放送)、バスケットボール大会(1990年10月10日実施、同年10月13日放送)とスポーツ大会が2回開催された。 1990年2月18日にはモスクワから生放送を行っている(時差が6時間あるため、モスクワ時間で21:00の放送開始)。この年に公開された、日本・ソビエト連邦合作の映画『オーロラの下で』の案内役を川村が務め、その関係でモスクワに“里帰り”することになったことからこの企画の実現となった。放送は、モスクワ市内のある日本企業が使う電話回線を借りて行われ、東京のニッポン放送のスタジオには放送作家の近沢氏が入り、川村が東京のスタジオに話しかける形で進められた。川村自ら、モスクワ市内のマクドナルドの前に並ぶ客に「欲しい物は何か」「恋愛と学業、どちらも両立できるか」などの質問を振ったり、当時のソ連のバンドブームなど、音楽などの話題を聞き、その収録テープを放送。またこの日、川村は「北海道とソ連は40kmしか離れてないんだよ」と放送の中で話しかけていた。 最終的には当時のミハイル・ゴルバチョフ書記長をゲストに招くのが目標だったという。これが実現すれば間違いなくラジオの歴史に残る快挙と言われていたが、結局実現しなかった。(その後1991年4月に、当時の内閣総理大臣の海部俊樹に招待されるという形で、そのゴルバチョフとの晩餐会に川村が招待されていた)
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ソ連との交流
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石川県は今もロシア協会が対露交流を行うなど、ロシアとの文化交流が深いが、その礎を築いたのが森だった。日ソ協の会長を務めていた関係で、1950年代よりソ連との民間交流を実施していることでも知られていた。内容としては中学生の相互訪問であり、日本側がソ連に出向くときはピオネールのキャンプ場が目的地であった。最初の訪問団が訪ソした時から、現地では日の丸と君が代を尊重した扱いを受け、感動したという。喜朗によれば「はじめは、子供たちが共産党になじんだり、アカになるから危険だ」と周囲は疑心暗鬼であったが、「ソ連に行った子供たちは学校ではやらないのに、初めて外国で日の丸を見て君が代を歌ってポロポロ泣いた。」事実を挙げ、生き生きとした体験の例として紹介している。その後、金沢市とイルクーツク市は姉妹都市の関係を結び、根上町はシェレホフ市(en)と締結した。その後、子供ばかりでなく、大人の交流も増加していったという。茂喜は交流に当たり、ソ連の地元側に丁重に接したため先方も更に丁重な姿勢で出迎えるようになった。 茂喜の持論は「日ソ交流が正々堂々と行われる日が必ず来る」というものであり、この交流を読売新聞で紹介した村上薫は同時期にソ連が崩壊過程に入って西側と急激に接近し始めたことを挙げ、茂喜の予想が早期に実現したことを示している。 茂喜の死後、遺言に従って遺骨の一部がシェレホフ市に送られ、墓が造られた。その墓は茂喜が要求したもので、自分の死後も交流を絶えさせないための手段であったという。2001年にイルクーツクでの日露首脳会談の際にウラジーミル・プーチン大統領が墓参をおこなった。2010年8月には、息子・喜朗が同地を訪れ、母の遺骨の一部を茂喜の墓に納めた。
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